教養としての実践的キリスト教 海外フィクションを見るときに知っておきたい三つの宗派と新宗教

■キリスト教と海外フィクション
今年のアカデミー賞で最優秀脚色賞を受賞した映画『教皇選挙』(2024年)が2025年3月20日に日本で公開された。日本人にとってなじみの薄いキリスト教(正確にはカトリック教会)を題材にしているため、関心は薄いのではと思っていたが、週末の劇場はほぼ満席だった。公開館数が限られていたため、観客が集中したことも影響していると思われるが、それでもこれだけ客が入るのだから相応の関心を持たれていると見て間違いあるまい。やはり「アカデミー賞受賞作」「作品賞候補作」という看板は映画ファンにとって抗いがたい魅力があるのだろう。海外のフィクション作品を楽しむためにもキリスト教の事は絶対に知っておいた方が作品への理解が深まる。今回は海外のフィクション作品を見るときに知っていると役立つキリスト教の実践的知識について、可能な限り簡潔に述べていきたい。今回は、キリスト教の三つの宗派について解説していきたい。
■カトリック、東方正教会、プロテスタント
日本仏教には複数の宗派がある。法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、日蓮宗の13宗派がその主だったものだがこれらはそれぞれに異なった教義を掲げている。イスラム教はおよそ9割の信徒がスンナ派だが、スンナ派内でも複数の宗派に分かれる。その他、シーア派などの他宗派やイスラム教から枝分かれしたバハイ教などが存在する。教えの解釈を巡って宗派が分かれるのは世界宗教では避けられない現象だ。当然、キリスト教にも複数の宗派が存在する。キリスト教の宗派は主に3つに分かれる。これらの宗派は宗派内でも少しずつ考えが違うのだが、それについての述べると書籍が一冊書けてしまうため概略のみを述べることにする。
■カトリック(ローマ・カトリック教会)
3つの宗派の中の最大勢力で、世界のキリスト教徒およそ24億人のうち12.3億人がカトリック信者と推定されている。その最大の特徴は「教皇(法王)」を頂点としたわかりやすいヒエラルキー型の階層構造だ。世界全体で2700の司教区に分かれており、教皇を頂点に各司教区を監督する「司教」、司教区内の各教会を監督する「司祭(神父は司祭の敬称)」、司祭の補佐をする「助祭」が聖職者として地位についており一般信徒は彼ら聖職者から教えを受ける。司教区には重要な大都市圏や、他の何かしらの理由で特別扱いを受けている「大司教区」があり、日本の場合、東京、大阪、長崎が大司教区に相当する。東京、大阪は首都と西日本を代表する第2都市であるので特別扱いはわかりやすい。長崎は隠れキリシタンが潜伏してきた歴史的経緯から日本国内では例外的にキリスト教徒の割合が高いので特別扱いされているのだろう。大司教区を監督する司教は特別に「司教」ではなく「大司教」と呼ばれる。
また、司教の中には教皇から指名を受けてバチカン直属になり、教皇の補佐をする特別な立場の者もいる。それが「枢機卿」で、新教皇を選出するコンクラーヴェで投票権を持っているのは彼ら枢機卿である。枢機卿は約200人存在し、日本人も一人いる。カトリック大阪大司教区を監督していた前田万葉枢機卿は2018年に教皇フランシスコにより任命を受け、現在も同職についている。教皇は世界最小のミニ国家バチカン市国の首長でもあるので、教皇が国王とするなら、枢機卿は大臣というところだろうか。このような体系だった統一された組織を持っているのはキリスト教の3つの宗派の中でカトリックのみである。
なお、教養として知っておきたい重要なポイントなのだが司祭は全員男性である。『教皇選挙』の登場人物が殆ど男性なのはそういった事情からである。イエスの高弟だった12使徒が全員男性だったため、その後継者に相当する司祭は全員男性であるべきという「使徒継承」という考えが根拠だが、おそらく一番大きな理由は伝統だろう。女性の司祭を望む声は絶えないが、カトリックほど大きな組織が方向転換するのは容易ではあるまい。伝統を重んずる保守派の信徒、聖職者も一定数確実にいるはずなのですべてのカトリック信者が一枚岩でもないはずである。後述する東方正教会はカトリックと喧嘩別れしてできた宗派だが、同様に使徒継承の考えを受け継いでいるため東方正教会も聖職者は全員男性である。
もう一つ、これも知っておくと得なので付け加えるとカトリックには修道会というものもあり、そこに属するものは特に修道士(女性の場合は「修道女」)と呼ばれる。修道士は司教区に所属する司祭とは異なり、教区には所属せず、世俗から離れた修道院で隠遁生活を営んで修行の日々を過ごす。より厳密には世俗から離れずに質素な生活をしながら修行する托鉢修道会というのもあるのだが、説明すると長くなるのでここでは省略する。司教区に属する司祭を「在俗司祭」、修道会の司祭を「修道司祭」とわかりやすく区別して呼び分ける場合もある。
修道院には男子修道院と女子修道院があるが、当然ながら男子修道院は女人禁制、女子修道院は男子禁制である。ただ、古い修道院でも観光地化されているところはある程度観光可能である。実際筆者もメテオラ(ギリシャ)の女子修道院を訪問したことがある。観光地化されても頑なに伝統を守り続ける修道院もある。世界遺産にもなっているアトス山(ギリシャ)の修道院群は事前申請すれば非キリスト教徒でも見学できるが、残念ながら入山を許可されるのは男性のみである。(メテオラもアトス山も東方正教会の修道院。東方正教会には修道院制度は存在するが、カトリックのような修道会は存在しない。ややこしい)
■東方正教会
初期キリスト教がカトリックと喧嘩別れしてできた宗派である。わが国はキリスト教徒自体が少数派だが、ただでさえマイノリティーのキリスト教徒の中でも正教会はわずか1%に過ぎない。残りはカトリックとプロテスタントがほぼ半々で日本人にとっても最も馴染のない宗派である。存在そのものをご存じない方もかなり多いのではないだろうか。
東方正教会とカトリックはもともと同一の存在だった。枝分かれの原因はローマ帝国の東西分裂である。ユダヤ教の異端宗派として迫害されていたキリスト教だが、ローマ帝国領内の各地で広まっていき、4世紀になってついにローマ皇帝によって「公認」「国教化」された。ところが、ローマ帝国が東西に分裂したことで管区も分裂してしまった。西ローマ帝国のローマ司教は12使徒の一人であり、イエス・キリストから全権を委ねられた聖ペテロの後継者として全教会に対する「首位権」を主張した。聖ペテロが殉教したとされる場所は現在のバチカンにあたる。バチカンはローマ市内にある世界最小のミニ国家であり、その場所にはサン・ピエトロ大聖堂が建っている。キリスト教における重要な聖地であり、ローマ司教が首位権を主張する根拠はそこにある。
しかし、東ローマ帝国各区の総主教はローマ司教の首位権をみとめず、同格性を主張した。その後、東西の教会は独自性を帯びながらも曲がりなりにも名目上は統一性を保っていたが、やがて致命的な事件が起きる。1054年、別の政治問題で会合を持ったローマ教皇とコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)総主教が教義の違いから相互を破門しあった。これによりキリスト教は東西に分裂した。それまで一つだったキリスト教に明確に「宗派」が発生した瞬間である。
カトリックと東方正教会のわかりやすい違いは組織構成にある。カトリックがローマ教皇を頂点とするヒエラルキー構造なのに対し、東方正教会は諸教会のゆるやかな連合である。東方正教会は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から東へと広がっていったが、教えが広まった地域はそれまでの地域の傘下に入るのではなく、自治が認められた。東方正教会に「セルビア正教」「ロシア正教」「ブルガリア正教」など「~正教」とつくものが複数あるのはいわば暖簾分けのようなものである。わが国にも日本ハリストス正教会が存在する。歴史的経緯からコンスタンティノープル総主教が世界主要首座主教会議では議長を務めるが、現存するコンスタンティノープル総主教含む9つの総主教区は「同格」ということになっている。ローマ教皇のような統一したトップはいないが、各正教会ごとに「主教」→「司祭」→「輔祭」→「一般信徒」の階層構造がある。
カトリックも東方正教会ももとは同じ初期キリスト教から枝分かれしている。そのため、この2つの宗派は確かに違うが教義にそこまで大きな差は無い。1962年-1965年に行われた第二バチカン公会議で1054年の相互波紋は解消されている。後述するプロテスタントは成り立ちが全く異なるため、大きく様相が異なる。
■プロテスタント
歴史的重要事件である「宗教改革」を背景に生まれた教派の総称。中高で世界史を選択された方にとっては3つの宗派の中で最もなじみのある宗派だろう。このあたりの経緯は世界史でも習う範囲内なのでご存じの方は少なくないと思うが、その背景に中世末期におけるカトリック教会の弱体化と腐敗がある。聖地エルサレム奪還を目指した7度(数え方によっては8度)の十字軍遠征の失敗、教皇ボニファティウス8世が対立したフランス王フィリップ4世に捕らえられた「教皇のバビロン捕囚」事件などこれらの中世末期に起きた大事件はカトリックの権威を弱体化させた。組織の弱体化により規律も弱まり、聖職者が地位を金銭で買収されたり独身でなければならない高位聖職者が公然と愛人を作るなどの腐敗が進行した。
14世紀にはイギリスのジョン・ウィクリフとウィクリフの著作から影響を受けたチェコのヤン・フスがカトリックの教義に反発する運動を起こした。ウィクリフは大学の職を失い、フスはカトリックのだまし討ちにあって火刑に処された。後者は後にフスの支持者たちによって武力闘争に発展し、15年にも及ぶフス戦争の原因になった。マンガ『乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ』はフス戦争を背景に中世末期のヨーロッパ事情を描いた佳作である。作者の大西巷一氏は北海道大学大学院で西洋史を学んでいた異色の経歴で、同作はフィクションでありながら学習漫画的な学びの要素も多分に含んでいる。残酷描写も多く、万人向けではないが興味がおありの方は是非ご一読いただきたい。
マンガ『HELLSING』の登場人物、エンリコ・マクスウェルは「お前らプロテスタントのクソ雑巾兵が2人死のうが 2兆人死のうが 何人死のうが知ったことか!!」と印象深いセリフを残したが、マクスウェルはカトリックの司教である。(※現在の各宗派は融和を目指していて度々話し合いの機会を持っている)ただし、ウィクリフやフスの運動が起こした影響は限定的で本格的な宗教改革運動は16世紀のマルティン・ルター登場まで待つことになる。中高レベルの世界史で習うような事柄なので、ここで改めて述べる必要もないだろう。
以上のとおりプロテスタントは16世紀以降に成立した新興の宗派であり、初期キリスト教から枝分かれしたカトリック、東方正教会とまったくルーツが異なる。ルーツが全く異なるため、様相も全く違う。まず組織的な成り立ちだが、プロテスタントはカトリックへの反発から発生した宗派のため聖職者の位階制度を否定している。プロテスタントは聖職者と一般信徒の間に上下関係をつくらないため、聖職者(プロテスタントの場合は牧師)になるのに特別な条件が必要ない。カトリックも東方正教会も聖職者は男性で、高位聖職者になると独身でなければならないがプロテスタントの場合は既婚男性でも女性でも聖職者になることができる。
プロテスタントにはヒエラルキー構造もなければ、各教派の結びつきもない。カトリックは教皇を頂点とした単一のトップを抱く単一の組織、東方正教会は暖簾分けされた組織同士の緩やかな連合体だが、プロテスタントは旧教(カトリック)への反発から発生した教派の総称に過ぎない。同じイデオロギーのもとに発生した運動ではあるが、それぞれの教派に結びつきは無い。例えるならカトリックが教皇を家父長とする「家族」で、東方正教会が各正教会同士の「親戚」なら、プロテスタントの各教派は「他人」と言ったところだろうか。他人同士なので各教派によって教義も異なる。
筆者が卒業した大学はミッション系で、メソジストというプロテスタントの一派である。メソジスト(几帳面屋)という名称は創始者のジョン・ウェスレーが厳格で几帳面な生活をおくっていたことに由来する。禁酒禁煙を推奨するなど厳格、質実剛健でこういった厳格さはプロテスタントの諸派に多く見られる特徴である。同じプロテスタントの括りに入るが、英国国教会は成り立ちから教義まで性質が大きく異なる。プロテスタント各教派の殆どはマルティン・ルター(ルター派)やジャン・カルヴァン(カルヴァン派)などの一介の個人や団体(ピューリタン派)から始まった宗教改革で発祥したものである。
イングランド国教会は違う。こちらも中高レベルの世界史の話だが、当時の英国王だったヘンリー8世は世継ぎ問題を含む諸々の事情からキャサリン妃と離婚したかった。結婚はカトリックによる「秘跡」であるため、ヘンリー8世は教皇クレメンス7世に「婚姻の無効」を宣言するよう求めたのだが却下された。これをきっかけにヘンリー8世は教皇の「首位権」になんだかんだと難癖をつけ、カトリックを破門された。破門された国王は自らを首長にイングランド国教会を立ち上げた。プロテスタントの教派でも異色の「国王からトップダウン型」で発生した宗派であり、動機も世俗的で言いようによっては不純である。教義に関する考えから派生した宗教改革に由来する他のプロテスタント諸派と異なることがおわかりいただけるだろう。
だが、宗教改革とは異なる経緯から生まれたイングランド国教会も宗教改革運動と無縁ではいられなかった。国内の高官にもプロテスタント運動に同意する者が少なくなかったこと、メアリー1世の時代に一時的にカトリックに復帰したことからイングランド国教会は「プロテスタントだがカトリックの要素を残す中道的な教義」に落ち着いた。教義の分かりやすい例が聖職者の規定である。(イギリス植民地に広まったイングランド国教会系列の「聖公会(アングリカン・チャーチ)にも共通する)イングランド国教会系の教派はプロテスタントらしく、修道士を除けば女性でも妻帯者でも聖職者になることができる。だが、プロテスタント各派が否定した聖職者の位階制度はカトリックから受け継いでおり、カンタベリー大主教をトップに、「主教」→「司祭」→「執事」の階級がある。





















