ヤマザキマリが語る、『美術の物語』の普遍的な魅力 「何世紀も残り続けていく書籍であることは間違いない」

ヤマザキマリ、『美術の物語』を語る

美術はそのときどきの社会を知るための手掛かり

――本書は、先史時代を描いた「不思議な始まり」から、1966年に追記され、1995年に出版された第16版までのあいだに加筆・更新された終章「終わりのない物語」まで、全28のチャプターで美術史の「流れ」を解説していきます。本書をひと通り読んで、個人的に興味深いと思ったのは、いわゆる「遠近法」に辿り着くまでに、結構時間が掛かっていることでした。

ヤマザキ:確かに相当時間がかかっていますよね。もちろん、ギリシャ・ローマの時代にも、ある程度遠近法のようなものは認識されていましたが、その当時はまだ数学と美術の理念が融合することはありませんでした。ところが、イタリア・ルネサンスの時代になると、古代ギリシャ人たちが遺した数学書などを熱心に読み込む人文主義者が現れる。この本にも記述がありますけど、その中から、ピエロ・デッラ・フランチェスカみたいな多岐にわたる才能を持った人が出てきて、数学で絵画を紐解く透視図法を試行錯誤するようになる。私が大好きなウッチェロやフラ・アンジェリコもそうですが、絵をただ感覚的に描くだけでは満足のいかない画家たちというのが、次々と現れてきたんですよね。

――さまざまなジャンルの知識を融合して美術にも活かしていくというか。

ヤマザキ:そうですね。ダ・ヴィンチというと、万能の天才というイメージが固定しているじゃないですか。でも、あの当時の表現者はむしろなんでもできて当たり前だったんです。絵画だけではなく、彫刻もできて、詩文も書けて、建造物も設計できて、あげく楽器も弾きこなせます、みたいな人はダ・ヴィンチだけではありませんでした。この本にも彫刻作品が載っていましたけれど、ミケランジェロは絵画はもちろん、彫刻も建築もできた人だったし、さっき名前を挙げたピエロ・デッラ・フランチェスカは、数学者でありながら画家としても稀有の才能を持っていた。ルネサンスというのは、知性と技法力の可能性を高め、鍛え上げた人間力を触発しあって、どこまですごいものを生み出せるかという意識を育み続けた時代だったんです。

――もうひとつ改めて思ったのは、ヨーロッパの美術史における、キリスト教の影響力の強さでした。

ヤマザキ:日本のみなさんが西洋絵画の美術展に行くときに、特にジレンマを感じるのが、キリスト教美術というやつですよね(笑)。日本では、キリスト教について詳しく知らないから、絵画や彫刻の見方もわからないし、教会建築の凄さもわからない、と怖気付いてしまう人は少なくありません。でも、私に言わせてみれば、そんなことなどあれこれ気にせず、もっと気楽に向き合えばいいんですよ。色々見ていく中で、特に何か心に残るようなものがあったら、あとでゆっくり調べればいい。

日本の人は美術展に行こうと思うと、あらかじめある程度の知識がないとダメなんじゃないか、せっかく行っても楽しめないんじゃないか、と捉えている傾向が強いですよね。美術展には答え合わせをしにいくのではなく、綺麗な自然を眺めに行くような感覚で楽しめば良いと思います。だけど、やはりあらかじめ学習しておきたいと思う人には、それこそ『美術の物語』を読めば、心強いサポートとなってくれることでしょう。

――たしかに『美術の物語』を読めば、たいていの美術展は気負わずに楽しめるようになりそうです。

ヤマザキ:十何世紀もの間、キリスト教によって社会が統括されてきたヨーロッパの絵画に聖書をモチーフとしたものが多いのは当然のことです。当時はテレビもネットもありませんから、人々の倫理観や思想をまとめるキリスト教の力を普及させるための、最も影響力のある手段が教会という建造物と、そこに描かれたり飾られたりしている絵画です。人々が集まる教会は、テレビやネットと同じ役割を担っていたわけです。

日常的に、壁面や天井に描かれた聖書がモチーフになった絵画に囲まれていれば、誰だってキリスト教の教えに染まっていきます。これがたとえばイスラム圏であればコーランの教えが美術になる。日本で言えばお寺や仏像といった仏教美術がそこに当てはまりますよね。

美術と言うとどうしても“美”という言葉を軸に考えてしまいがちですが、絵画にしても彫刻にしても建造物にしても、基本的には目の保養のためにあるのではなく、そのときどきの社会を知るための手掛かりとして残されたもの、と捉えた方がいいでしょう。

私が最初に言った「歴史的な背景が立ち上がってくる」というのはそういうことです。人間がこれまでに何に縋って、何に支えられながら生きてきたのか、美術史を辿れば自ずと見えてきます。

「美術の物語」であると同時に「人間の物語」

――いわゆる「印象派」と呼ばれる画家たちに、日本の浮世絵が与えた影響が解説されている箇所も面白かったです。

ヤマザキ:当時のヨーロッパの人たちにとっての浮世絵は、すごく革新的なものだったんでしょうね。浮世絵は、他の美術史とはちょっと系譜が違うというか、キリスト教のような権力のために使われたものではなく、商人たちの力が生んだ、商人たちにとっての娯楽だったわけじゃないですか。戯作なんかもそうですね。まさに現代の漫画文化の先駆的表現だと思いますが、要するに民衆の日常を彩るエンターテイメントなんですよね。基本的にはヨーロッパの美術の概念とはまったく系譜が違います。強いて言えば、ルネサンス時代の思想がキリスト教を離れて、ギリシャ・ローマの復興という言い訳のもとに裸の美人なんかを描いていた時代が、少しだけ似ていたかもしれない。でも、あくまで金持ちの知識人に向けられたものでしたから、同じとはいえません。それにしても、ゴンブリッチは、北斎と歌麿の絵を一点ずつ選ぶときに、この絵(「井戸凌の不二」)と、この絵(「春宵図」)にしたのでしょうね。もっと有名な作品はあるのに、やはり着眼点が独特ですよね。

――たしかに(笑)。

ヤマザキ:北斎のいちばん有名な「神奈川沖浪裏」とかを出すのではなく、この絵を選んだのは、二次元的描写でありながら、細かく流暢な「動き」をあらわしている手法が新鮮だったのかもしれませんね。陰影も無い簡略化された一本線で描かれているのに、何故かリアルで生々しい、という驚きがあったのではないでしょうか。

――当然ながら、キリスト教の影響はそこにはまったくないわけで。

ヤマザキ:絵画という表現の果てしない多元性を感じさせるきっかけにはなったでしょうね。ただ、この本にも書いてあるように、キリスト教もずっと盤石だったわけではなく、16世紀あたりからの印刷技術の発展と共に、わざわざ教会に行かなくても聖書は身近なものになり、同時に教会に集まる必然性は弱まっていきます。そうすると、教会ではなく金持ちの家に飾られる目的で絵が生産されるようになっていく。絵画の媒体は教会ではなく、今度は「画商」という人たちが力を持つようになっていきます。

 つまり、美術品の役割が宗教や社会を統括するためのツールではなく、「商品」として個人のあいだで流通するようになり、資本・資産としての価値が付くようになる。今でも時々誰それの絵が何億円で落札されたとか、そういうとがよく話題になったりするじゃないですか。日本もバブルの頃、とある企業がゴッホの「ひまわり」を53億円で落札して、すごく話題になったことがありましたよね。あの出来事は、日本経済の繁栄の証でもあり、現代的な美術のあり方を表していたとも思います。

――本書を読むと、それもまた長い長い美術の歴史の中の1ページかもしれないと思ったりもします。

ヤマザキ:そうですね。美術が資本に置き換えられる時代も、美術の長い歴史の中の一コマであって、これから先はまた別のかたちで美術が用いられるような日が来るのかもしれません。

――それにしても、この本をひと通り眺めてつくづく感じたのは、この本で言及されたり掲載されている作品は、すべて人の手によって生み出されたものであるということでした。その事実に、ちょっと圧倒されてしまうというか。

ヤマザキ:人間の人間たる特徴がまざまざと現れていますよね。生物図鑑の中に「人間/人類」という項目があったら、その生態的特徴として、きっと「想像力によって無いものを生み出す/創作する」って書かれると思うんです。動物は遺伝子を残すために様々な工夫をしますが、生き延びるために肉体を維持するだけではなく、メンタリティに栄養を与えるという行為は人間に特化したものです。美術というはまさに、古代の昔から、そういった意味で我々人類の生存にとって、欠かせないものだったということです。そう考えると、この本は「美術の物語」であると同時に「人類の物語」だと捉えることもできますね。

 そういう意味で、この本が一家に一冊置いてあれば、安心感がもたらされるはず(笑)。何せこの一冊の中には、先史時代から生きてきた人間たちのエネルギーが、凝縮した形で詰め込まれているわけですから。

 そして、この度こうしてせっかくコンパクトなポケット版になったのだから、ぜひ旅のお供にもおすすめです。ゴンブリッチもこの本の中で書いていましたけど、絵というのは実際に対峙してみないとわからないことがたくさんあります。だからどんどん本物の美術作品と接していただきたいのだけど、そんな時、この本はどこのどんな美術館でも役にたつガイドブックにもなるでしょう。

 とにかく万能な美術書ですよね。この先、何世紀も残り続けていく書籍であることは間違いないと思います。

カバーを外してもデザイン性の高い仕上がり。布張りの装丁で、旅のお供にも

■書籍情報
『美術の物語』
著者:エルンスト・H・ゴンブリッチ
刊行記念特価:3990円(税別)
※重版出来からは通常価格の4990円(税別)で販売予定。
発売日:2024年10月18日
出版社:河出書房新社
単行本:1048ページ
※出版社在庫は既に完売。重版出来は2025年5月下旬出来予定

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