市街地ギャオ『メメントラブドール』インタビュー「自分を大きく見せたいといった雑念からは解放された」
小説はますますラディカルになっていく
──いま純文学では大田ステファニー歓人さんや安堂ホセさんといった市街地ギャオさんと近い世代の人が活躍しています。同世代感というか、なにかムーブメントのようなものは感じていたりしますか。
市街地:そうですね。ぼくが純文学の系譜を知らないだけかもしれないんですけど、ここ4、5年ですごくラディカルな感じで変わってきているんじゃないかなって思います。去年『ハンチバック』(※)が出てきたときに強く感じたんですけど、いままで文学が触れてこなかった領域を、剥き出しの心と体と強烈なユーモアセンスであそこまで生々しく表現する人が出てきたら、もうこの先の文学にはなにが残されているんだろうって。やり尽くされてしまったような気がしたんです。でも、きっとなにもなくなったところに風穴を開けていくことで初めて「次世代」と言われるものが始まっていくんじゃなのかなとも思います。この4、5年で進化してきたことが、これからはもっとすごいスピードで、想像もできない形で変わっていくんじゃないかなって予感がしています。ステージごと変わってしまうようななにかが起こるのかもと考えると、すごくどきどきします。
※『ハンチバック』……第128回文學界新人賞を受賞した市川沙央のデビュー作。背骨の障害からグループホームで暮らし、ネット記事やSNSに文章を書く女性を主人公にした小説。第169回芥川龍之介賞を受賞した。
──ラディカルな小説がすごくいっぱい出てきているなとは感じます。
市街地:個人的にすごく思っていることなんですけど、いろんなコンテンツが発達してきて、いままで文学が担っていた領域が、もう他の表現媒体に流出していっていると思うんです。たとえば映像って、単位時間で文字の何百倍も情報を伝えられるみたいに言われているらしいし。文学はもう、情報伝達というフィールドでは絶対に映像に叶わない。他の表現媒体で成立することと同じようなことをやっていても、書き手も読み手も消耗していくだけだと思うんです。だから、文学でしか、言語表現でしかなし得ないものはなんなのか、書き手ひとりひとりが解釈した上で、そこを研ぎ澄ませていくしかないんだろうなって。言語表現がもはや単純な情報伝達だけでは成立しないからこそ、解釈は個々人でまったく違うものになるんだと思います。その結果、現時点では「王道」だとされていない、変わった方向に進化をする人がいっぱい出てくるんだろうなって。それがここ4、5年の源流なんじゃないかなと勝手に想像しています。
──小説にしかできない表現が研ぎ澄まされていく?
市街地:そうですね。 映像と文章ってそもそもの制作フローがぜんぜん違うと思っていて。映像制作ってツールが基盤になっていることが多いと思うんですが、文章は別にWordが基盤になっている訳ではないですよね。基盤は書き手の脳内にあるんです。ツールを通さずとも、アウトプットしたものをもう一度咀嚼して、また別の形で出し直すことだってできる。脳内で完結しているから、アウトプットを出し直す際の減衰も少ない気がします。そうしていくうちに、書き手自身が想像もしていなかった場所にたどり着くということがままある。そこに文学しか持ち得ない面白さがあるんじゃないかなと感じています。ぼく自身、現時点で「王道」とされている表現に惹かれる部分もあるんですが、作家という立場になったからこそ、これからは「自分だけの進化」というものを探していきたいです。だけど、肩肘張らずにありのままで書いてもいきたい。しばらくは手探りの期間が長くなるんだろうけど、めげずに書きつづけていきたいです。
■書籍情報
『メメントラブドール』
著者:市街地ギャオ
価格:1,540円
発売日:10月28日
出版社:筑摩書房