市街地ギャオ『メメントラブドール』インタビュー「自分を大きく見せたいといった雑念からは解放された」
国語の授業は記憶がないぐらい苦手だった
──先ほど受験が終わったから図書室に行ったと仰っていました。なぜ急に本だったんでしょうね。たとえば、映画とかではなくて。
市街地:高校生のとき、軽音楽部に入っていて、バンドをやっていたんです。なんとなく、音楽と本と映画っていうのが、自分のなかで密接に繋がっていて。だけど、映画って、当時はサブスクもないので、観るためにいろんな工程を経ないといけないし、なによりお金がかかるじゃないですか。本だったら、図書室でただで借りれるしなって。
──小説を書く前に、バンドで作詞という文章表現をされていた?
市街地:たしかにそうですね。言葉を使った表現の原体験は作詞でした。
──特に好きだったバンドはいますか。
市街地:「syrup16g」や「THE NOVEMBERS」っていうバンドが高校生のときからずっと好きです。あと去年亡くなったんですが、チバユウスケさん。詩集が本になっていて(※)、そういえば、金原さんの本を読むより前に買って読んでいました。たしか高校生のときに出たんですよ。それまで発表してきた曲の歌詞が載っているんですけど、その合い間合い間にチバユウスケのセルフライナーノーツやよくわからないイラストが差し込まれているんです。ライナーノーツというほどしっかりしたものではなく、チバユウスケの人柄が伝わってくるような肩の力の抜けたコメントばかりで、面白く読んだ記憶があります。イラストもシュールでかわいかったですね。
(※)チバユウスケの詩集……2008年発行の『チバユウスケ詩集 ビート』(フォイル)。2024年にHeHeから復刻されている。
──『メメントラブドール』ではSNSを使う現代人の姿がとてもナチュラルに描かれています。子どものころからネットはよくやっていましたか。
市街地:ネットは当時の子どものなかでは触っていたほうかも、ぐらいですね。そんなにどっぷりハマってはいなかったです。家には家族共用のデスクトップパソコンがあったけど、それだけでした。自分用のパソコンは大学生になってからですね。作品を読んだ人にはインターネット詳しいんですか、ってすごく言われるんです。ぜんぜん別に詳しい方だと思ってなくて、同世代の平均というか、みんながある程度見ているような情報にしか触れてないんじゃないかなって思います。
──ブログやウェブ日記を書くというようなこともやっていなかった?
市街地:やっていませんでした。自分のことや自分の考えを文章にするっていうのが昔から苦手で。読書感想文も大嫌いでしたし。国語の授業は記憶がないぐらい苦手でした。
──国語の教科書といえば、太宰治の『走れメロス』とか。
市街地:嫌すぎて、忘れているのかもしれない。読んだはずなんですけど、まったく記憶がなくて。あとになってあのとき太宰治読んでいたんや、って気づいたぐらいです。
──では、25歳までは小説を書きたいという気持ちはなかったんですね。
市街地:そうですね。小説を書くってすごく途方もない行為だろうと思っていたし、そもそも小説を書きたいって感情を知らなかったので。なので選択肢としてまず存在してなかったですね。
──なにかきっかけがあったのでしょうか。
市街地:大学を卒業すると、なにもしなくても一緒にいれた人たちっていうのが、どんどん消えていくじゃないですか。自分からなにかをしないと繋がりつづけることができない、というか。それで、寂しさを残った人たちで埋め合おうと必要以上にお互いの存在を求めすぎて、仲違いしてしまうことがままあったんです。恋人はもちろん、友達もそうでした。
人間関係そのものがしんどくなっていたけど、でも一人になったらなにをしたらいいかわからなくて。そんなときに、ツイッターのタイムラインである文学賞の広告を見て、小説を書くって選択肢があるんやなってそのときに気づいたんです。それで、大阪文学学校というところに通いはじめました。
──そのときのことをいま振り返るとどうですか。
市街地:書いているときは不思議と気づかないんですけど、書き終わってから「いまめっちゃやらしい気持ちで小説を書いてたな」って気がついちゃうんです。これはたぶん小説を好きな人間が書いた小説ではなくて、自分を好きな人間が書いた小説なんだろうなって。文学学校に行っている人を見ると、やっぱりそうじゃない人がいっぱいいる。その人たちを見ていると、自分が恥ずかしくなってきてしまって。ぼくは自分の道具として小説を使おうとしていたんだろうなって、こんな人間はたぶん小説を書くべきじゃないと思って、そのときは一年で書くのをやめました。
──そこから五年経って、また小説を書きはじめたと聞きました。
市街地:そうですね。去年の四月から小説執筆を再開しました。いろんな文学賞に応募していたんですけど、一番最初に結果が出たのが太宰治賞の最終選考通過でした。普段はだいたい家で仕事してるんですけど、最終選考の連絡がきた日はたまたま会社に行っていて。トイレから出たときに携帯を見たら不在着信が入っていたんです。携帯の電話ってほとんど使わないし、かかってきてもだいたいスパムみたいなのばっかりだったから、着信が鳴らないようにしていたんですよ。不在着信の番号を調べたら筑摩書房って出てきて、そういやなんかの賞を出したな、って。
最終選考なんて、考えもしてなかったです。賞って一次を通ったらインターネットや誌面に名前が載るじゃないですか。どの賞も記念受験の気持ちで出していたし、一次通過で自分の名前を見れたら、書いていてよかったなと思えるやろうなくらいに考えていたので。電話を折り返したら、「もしかして市街地さんですか?」って言われて、市街地さんって誰やねんってなりました。人にペンネームを教えたことがなかったし、だから当然その名前で呼ばれたこともなかったので。
──25歳で書いていたときと、30歳のいまとで心境の変化はありますか。
市街地:文学学校に通っていたときに書いた小説は、たぶん意識化でも無意識下でも、こんな小説を書ける自分はすごいんじゃないかっていうやらしい気持ちが小説のなかに入っていたんだと思います。でも、今は違う。『メメントラブドール』を含め、執筆活動を再開してから書いた小説はすべて、友達や自分の好きな人たちに楽しく読んでもらえたらいいなという姿勢で書きました。だから、自分を大きく見せたいといった雑念からは解放されたんだと思います。あと単純に生きた年数の違いですかね。30歳になったら、自分が大した人間ではないと自覚する経験がいくらでもあるから。それに、大した人間ではない自分だからこそ書ける小説があるし、読者としても、着の身着のままで書かれたような小説が読みたい。だから、自分自身に過度に思い上がりながら小説を書くことはもうできないですね。