梶裕貴 × カンザキイオリ 対談【前編】「“創作”は社会で生きていく術であり、命をかけているもの」
カンザキ「みんな軋轢のなかで頑張っている」
カンザキ:自分にとっての創作は、自分が感じた怒りやうれしいなどの感情から派生して、それをいかに1番上手く伝えられるかを考えて、音を付けたり文字にしたりするんですけど、やっぱりそれって、パッとできるものではなくて。ライブも生ではあるんだけれど、楽曲に脚色をする過程があって、もちろんそこにこだわりや美学もあって……。
さっき梶さんから、30分のアニメはCMを挟んで15分×2の集中力というお話がありましたけど、私もライブの経験から15分集中し切ることは本当に大変だということを知っています。私のライブのときは、観客からあまりはっきり私の顔が観えないようにしているんですけど、表情が観えずとも心まで見透かされているような気がして、私はそれがすごく怖くてたまりませんでした。声優さんも声だけで、それがずっと続いていく……。話が上手くまとまらないけど、要は、梶さんがすごいということが言いたくて。だから私と梶さんは、同じ創作者ではあっても、正反対かもしれません。私自身、すごく内向的ですし。
梶:仰っていること、すごくわかりますよ。内向的と言えば、僕は間違いなく、いわゆる“陰キャ”ですから。
カンザキ:うそだー!
梶:いやいや!(笑) よく疑われますけど、本当にそうなんです。人が苦手なんです。嫌いなわけじゃないんですけど、頑張らないと無理と言うか。でも、こんな自分だったからこそ、カンザキさんの作品に共感することができたのかもしれません。それに、なかなか表立って見えてこないだけで、きっと多くの人が、どこかしら無理をしていて生きている。
そして、そんな無理を抱えた人たちが集まって、社会というものはできているんだと思うんです。そういった、簡単には目には見えないような部分が、思春期の学生や十代の子たちに刺さるのかなと、カンザキさんの文章や曲から感じています。生きづらさを自覚し始めたり、人生で初めて人間関係上の問題に直面したような子たちにとっては、特に。
カンザキ:なるほど、そういうことなんですね! 私、別にうぬぼれているわけではないのですが、何故この本がこんなにいろんな人に読んでいただけたのか、その理由が自分のなかで謎だったんです。もちろん評価されることはうれしいことではあるけど、この本のどこに若い子たちがハマってくれたのか、書いた側としてそこを客観的に観られていなかったので、「そういうことかもしれない」って今、梶さんのお話を伺って思いました。みんな軋轢のなかで頑張っている人たちなのだと。
梶:カンザキさんの本に登場するのは、みんな頑張っていて、頑張ろうとしていて、真面目で真っ直ぐで、でも何かのきっかけでバランスを崩してしまい、苦しんでいるキャラクターたちばかりです。つまりは、きっと多くの人がそうなんだと思うんです。みんな、何も間違っていない。それぞれ、学校、会社、家庭、と形は違うでしょうけれど、最初から“変”だとか“狂っている”わけではなくて、苦しみのなかで、そうならざるを得なかった状況があった。誰でも自分のなかに、普段の思考では理解できない獰猛さや、言い方を変えれば"獣"みたいなものを飼っているはずで。
だから、作品のなかでその感情を爆発させて"獣"を解き放っているキャラクターたちが、どこか輝いてみえるのではないかと。多くの人が、自分もそうしたいけどできなかったり、できたとしてもそれがベストではないと判断する理性があるなかで、物語のなかで、代わりにそれをやってくれていることに救われる部分があるんじゃないかと思うんです。僕自身も、お芝居をしていて、そういうエモーショナルなシーンを演じるときほど楽しく、気持ちよく感じます。普段は表に出さない、出せないような濁った感情を、必要とされた上で解放することができる。なんというか…免罪符とでも言いますか、「この時間だけは、あなたという存在はここにはいません。役を通した上でなら何をやってもいいですよ」と言ってもらえている気がして。もちろん快楽だけじゃなく、苦しさも抱えなければなりませんが。
カンザキ:すごく分かります。私、人としゃべるときは、できるだけ笑顔で接しようと子どものころから心がけているんですけど、笑顔だけど、同時に嫌なことも思っていたりするんですね。だから創作という場を借りて、それをさらけ出せるのって楽しいんですよね!
梶:そうですね。そういった創作の場には、表現の醍醐味というものが詰まっているのかなという気がします。
――みんなが抱えているけど言えないことを、カンザキさんの作品が代弁していると。
梶:そうだと思います。
カンザキ:うれしいです。梶さんも、なにか抱えていらっしゃるんですか?
梶:そりゃあ、沢山ありますよ(笑)。
カンザキ:私は人間に偏見を持っているのですが、それでもみんな、すごくちゃんと生きているなって思うんです。それはビジネスの場で会うことが多いからかもしれないし、大人として振る舞わなければいけないという気持ちがあるかもしれない。でもみんな、ちゃんと悲しみを表に出すわけでもなくて、“偉い”なって。
梶:僕もどちらかと言うと、本音を隠して生きている部分が多いタイプの人間だと思います。だから、その場の空気を壊さず、誰かを傷つけない範囲で、素直に泣いちゃったり怒ったりできる人を見ると、「すてきだな」って思うんです。僕も近しい存在の前ではそういう面を見せることもありますけど、そうじゃないときは、その場の空気も自分自身のことも守る必要もあるわけで。だから僕も隠している部分は大いにあるし、僕は自分のことを結構ヤバいヤツだと思っているし(笑)。
でも役者って、どこかヤバい部分を持っていないと面白くないと思うし、普通の人が感覚として持っていることを、表現として伝わるものまで持って行くには、そのヤバさを自分自身で理解できていないとやれないんだろうなと。そう考えると、人に迷惑をかけない範囲でのヤバさは、自覚して持っていてもいいのかなと開き直っています。
カンザキ:なるほど、飼い慣らしていらっしゃるんですね!
梶:たまに暴れますけど(笑)。
カンザキ:でもすごく大事。私はまだ飼い慣らせていないので。
梶:そうなんですか? 誰よりも人当たりが柔らかくて優しそうなのに。
カンザキ:おうちで、一人で壁を叩いたりしています。
梶:(笑)。まあ、でも確かに、カンザキさんがどれほどヤバいものを抱えているかは、小説を読めば分かります(笑)。僕らは真逆だけど、でも根源的なところでは近いから、少なくとも僕は共感できるし、このキャラクターはこう演じるのがいいんだろうなと、イメージが浮かびやすかったんだと思います。