梶裕貴 × カンザキイオリ 対談【前編】「“創作”は社会で生きていく術であり、命をかけているもの」
学校に行く意味を失い不登校となり、代わりに音楽制作にのめり込み、2014年にボカロPとしてデビュー。「命に嫌われている。」や「あの夏が飽和する。」などの代表曲を生み出し、音楽シーンでは十代を中心にカリスマ的な人気を誇るアーティスト・カンザキイオリ。声優のみならず、著書『いつかすべてが君の力になる』の発刊や、自身の声をキャラクターに与え、音声AI化したプロジェクト「そよぎフラクタル」を展開するなど、様々な活動を行う声優・梶裕貴。
カンザキの処女作『あの夏が飽和する。』の朗読に梶が参加したことをきっかけに交流を続ける2人の対談が、カンザキの小説第3弾『自由に捕らわれる。』の発売に際して実現した。現場に流れるリスペクトと共感の空気の元、いつしかマイクがあることを忘れて弾んだ会話。そこから炙り出されたそれぞれの闇と、創作に対する並々ならぬ思い。二人が共鳴する対談の前編。
参考:カンザキイオリ × 梶裕貴 対談【後編】「人に愛がある限り自由なんて無い」
梶「アウトプットをする表現の方が向いている」
――お二人の交流が始まったきっかけは、カンザキさんの小説『あの夏が飽和する。』の朗読に、梶さんが参加されたことだったそうですね。
カンザキ:はい。梶さんには石田武命(いしだたける)というキャラクターで、2020年の書籍化のときにエピローグを読んでいただきました。もうすでに懐かしいですね。
梶:気づけば、あっという間ですね。そこから歴史を重ね、6月に発売された『あの夏が飽和する。 ―全文朗読付き完全版―』では、全文というかたちで、改めて朗読に参加させていただきました。そういったご縁もあって今回、僕から別のコラボレーション企画のお声がけをさせていただいたこともあり、この対談が実現しました。直接お会いしてお話する機会をいただき、とてもうれしいです。
――梶さんは、元々カンザキさんの音楽を聴かれていたのですか?
梶:はい。全てではありませんけれど、それこそ「命に嫌われている。」やプロデュースされていた"花譜"さんの楽曲を通して拝聴しておりました。小説『あの夏が飽和する。』は、最初に朗読のお話をいただいたタイミングで拝読し、カンザキさんの生み出される世界に心酔したままにお芝居をさせていただいた感じです。
――カンザキさんは、梶さんが出演されているアニメをご覧になったことは?
カンザキ:私自身は毎日アニメを観るというほどではないのですけど、梶さんの出演作で観たことのある作品を振り返ったら、『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン』がパッと浮びました。もちろん『進撃の巨人』など有名な作品も観ていますけど。
梶:わ! うれしいです! まさか『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン』を挙げてくださるとは思わなかったので驚きました(笑)。僕自身もあの作品が大好きで、常日頃から、もっと多くの方にご覧いただきたいと心から思っていたので…今カンザキさんの口からそのタイトルが出てきたことが非常にうれしいです。『Occultic;Nine -オカルティック・ナイン』は、かなり個性的で尖った作品なのですが、言われてみれば、どこかカンザキさんの作品とイメージがつながる印象もありますね。
カンザキ:セリフの多い作品が好きなんです。
梶:僕が演じさせていただいた我聞悠太を始め、登場人物たちはみんなめちゃくちゃ早口で、セリフ量が膨大でしたからね。
カンザキ:僕自身も言葉が多くなりがちで、小説も文章量が多くなりすぎて、毎回編集で減らされるんです。梶さんにお読みいただいた単行本も、最初はすごい文章量があったんですけど、キャラクターのおしゃべりを減らしたりしながら、あれでもトータルで100ページ分くらい減らしたんですよ。
梶:え、そんなに!? もったいない!(笑) なら、そういった意味での"真の全文"を読みたいです! そう思われる方、間違いなく沢山いらっしゃると思いますよ。
――梶さんも2018年に著書『いつかすべてが君の力になる』を出版されていますが、原作者としての視点や産みの苦しみを体験されて、その後の表現活動にどんな影響がありましたか?
梶:『いつかすべてが君の力になる』は、自己回想をベースとしたノンフィクションでしたが、それでも、最後まで書き切ることがどれだけ大変か、その苦しさに何度も打ちのめされながら出版までたどり着いた覚えがあります。伝えたいことやテーマ、イメージはあっても、それを文章としてまとめることは本当に難しくて。ただ思いを書き殴るだけではダメで、読んでいて気持ちのいい流れであるか、フックはいくつ、どこに用意すべきなのかなど、考え出すとキリがない。執筆という創作を少しだけかじったことのある身であるからこそ、最終的な"本"にするまでがどれだけ大変かわかるんです。(『自由に捕らわれる。』の製本版に触れながら)目の前に完成した、物質としての"本"があることの喜びがどれほどのものか、カンザキさんの気持ちが、リアルに想像できるところです。
とはいえ、僕が書いたのは、自分の今までの活動と、そこに対する想いなど、あくまでも自分自身のことだったわけですけれど、カンザキさんの小説は、カンザキさんご本人のアイデンティティーをキャラクターが代弁している形でのフィクション。創作上の世界観や登場人物たちに自分を投影しながら、同時に作品としてまとめ上げていくことの苦しさは、想像を絶します。僕も趣味の延長線上で小説を書いてみたりしたことはありますが、納得する文章を最後まで書き切ることは、どうしてもできませんでしたね。
やっぱり餅は餅屋と言いますか、実際に書いてみることで、僕は執筆での表現よりも、「そこに書いてある気持ちを理解して、咀嚼して、自分のなかに落とし込んで、それをどんな音色で再現すべきか考える」というアウトプットをする表現の方が向いているんだなと、あらためて感じました。『あの夏が飽和する。』の朗読も、カンザキさんが文章に込められた思いを音で表現することが、とても苦しくもあり、同時に、すごく楽しかったことを覚えています。
――苦しくもあり楽しくもあり。モノを書くのは、長距離走みたいな?
梶:はい。そう感じました。そういった意味では、声優業は短距離走と言えるかもしれません。台本をいただいて各自準備してはいくものの、実際にスタジオに行ってマイク前に立ってはじめて、ようやくそこがスタートラインなわけで。いざ走り出しても、準備していったプランが共演者のお芝居と噛み合うかなんてわからないし、監督の演出によって修正することなんて当たり前。
なので、自分のなかでの準備も大切だけれど、いかにアフレコ現場で臨機応変に対応できるかが重要なんです。30分アニメなら前半と後半に分けて、前半なら前半、一度収録が始まったら、完成するまで休みなく収録していくので、そこには最後まで全力で走りきる集中力と、相手の芝居に即座に対応する反射神経が必要かと。その感覚は、卓球や将棋、チェスといったものにも例えることができるかもしれませんね。一瞬の瞬発力や応用力が欠かせない場面が非常に多いので、ひとつの作業を長く続ける執筆作業とは全くの別物と言えるかと。でも、だからこそ、カンザキさんをはじめとする作家の皆さんへの尊敬の念はやみません。