“空っぽの心に火を灯す”小説 万城目学が『八月の御所グラウンド』で直木賞受賞の必然性
万城目学が遂にやった。6回目のノミネートとなった第170回直木三十五賞を『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)で受賞した。2006年に『鴨川ホルモー』(角川文庫)でデビューした時から、日常と奇想天外な非日常が交錯する不思議な物語を描く「マキメワールド」の創造主として、ファンの心を掴んできた。それでも届かなかった直木賞にやっと届いた『八月の御所グラウンド』とはどのようは物語か。そもそも「マキメワールド」とはどのようなものなのか。
悲願の直木賞受賞作『八月の御所グラウンド』とは
「あなたには火がないから」。そう言われて彼女に振られ、彼女の実家がある四万十川でカヌーを漕いでいっしょに遊ぶ計画も消え去った朽木は、通っている大学がある京都に残って、八月の炎暑に焼かれていた。そこに友人の多聞から誘いがあって、貸した3万円を返す代わりに「たまひで杯」に参加しろと言われる。
「たまひで杯」とは京都の祇園でたまひでという名の芸妓に入れ込んだ6人の男たちが、野球チームを作って競い合っている大会で、もう何十年も同じ夏の時期に開かれていた。朽木は、多聞が師事している教授のチームに入って試合をすることになり、京都御所の隅にあるグラウンドへと朝早くから出かけていった。
『八月の御所グラウンド』は、そんな冒頭を読むだけなら、彼女に振られてぽっかりと開いた心の穴を、野球を通じて埋めていこうとする青春ストーリーに見えなくもない。もっとも、そこは日常にスッと非日常が紛れ込む物語を描いてきた万城目学の小説だ。試合に臨んだものの2試合目でメンバーが足りなくなった朽木のチームに、近くで見ていた「えーちゃん」という男が参加するようになっていった先で、夏の暑さをスッと冷やして居住まいをピッと正させる展開が繰り広げられる。
どういうことかは『八月の御所グラウンド』を読んで噛みしめてもらうとして、読み終えた人には空っぽの心に火を付けられたような感覚がもたらされるとだけは言っておく。これから何をしたら良いのか、自分は何をしたいのかといった迷いを改めて自覚して、だったら何かを始めてみようかといった気持ちになれる。そんな小説だ。
「何もない」だけど折れずに書き続けた
何もない空っぽの心に火が着く瞬間を、実は万城目学自身も経験している。エッセイ集『べらぼうくん』(文春文庫)にこんな一文がある。
“自転車に乗って大学の正門を出たところで、正面から風が吹いてきた。風は見事なくらい、何もない自分の真ん中を通過した。その瞬間、この気持ちをどこかに書き残さないといけない、と思った”
万城目学はここから猛然と小説を書き出し、29才で小説家デビューを果たした。ただし、風が通り過ぎるくらい、何もない自分を恥じて小説を書き始めたということではなさそうだ。『べらぼうくん』ではこう続く。
“四回生になって就職活動が始まると同時に、これだけ己の内側を透明に染めて占拠しているこの感覚も忘れさってしまう、そこにあったという事実さえも思い出せなくなってしまうだろう、そんな予感がしたのである”
空っぽであることをまず認め、それすらも貴重なものだと感じた上で、次へと向かって歩き始める。そうした自身の経験が、『八月の御所グラウンド』という小説には、これまでの作品の中ででも濃く反映されているところがある。
「あなたには火がないから」と彼女から言われた朽木は、吹いてきた風に気付かされた若い頃の万城目学のよう。そして、成り行きで参加した野球大会の中で、やりたいことがあったのにできなかった人たちの存在に気付いて背筋を伸ばす。そんな朽木を通して読者も同じように背筋を伸ばし、何かを始めてみようと思うのだ。
過去に何度も直木賞にノミネートされながら届かなかった万城目学の小説が、今回ようやく届いた背景には、そうした作者の思いといったものが滲み出ていたからかもしれない。加えて、どこに連れて行かれるか分からない展開で、読者を引きつけてきた「マキメワールド」も健在とあって、選考委員に強く響いたのかもしれない。