組長と直談判、喧嘩上等、シンナー厳禁…… 伝説のレディース総長・かおり、硬派すぎるエピソード
「ティーンズロード」の伝説
――かおりさんの名前は北関東ではじわじわと有名になっていたわけですが、大洋図書が出していた暴走族雑誌「ティーンズロード」で紹介されて、かおりさんは全国的な知名度を獲得しました。「ティーンズロード」は既に廃刊になっていますが、レディースのみなさんにとって、どんな雑誌だったのでしょうか。
かおり:あの頃に暴走族雑誌は「ティーンズロード」のほかに、「ライダーコミック」「ヤングオート」「チャンプロード」などがあって、先輩からよく見せてもらっていました。「ティーンズロード」は私が読み始めた頃はまだレーシングチームが多くて、レディースは胡蝶蘭のひろみさんがちょっと出ていたくらいだったかな。私たちも若かったから、載っている他のレディースを見て、「なんだよこんな、ブッ細工な奴を載せんなよ」とか、「この煽り文句、ありえないんだけれど!」みたいに、勝手なことを喋っていましたね。
――初めて掲載されたのは何歳のころですか。
かおり:16~17歳の頃ですね。女族を結成して3~4か月くらいだったと思います。友達が勝手に編集部に応募して、取材に来てくれることになったんです。みんなに話したら凄く喜ばれましたよ。憧れの雑誌に載るなんて記念になるね、という感じでした。硬派と口では言うけれど、なんだかんだでみんなミーハーなんだよね。
――取材当日はどんな感じだったのでしょうか。
かおり:小山の運動公園に集まりました。全員で20人くらいですね。ところが、撮影が始まろうとしたら、どこから聞きつけたのか、赤い特攻服を着た地元の一個上の先輩たちが来てしまったんですよ。先輩たちは、勝手に女族の初代として取材されようとしたんです。
――それはさぞや、撮影会場が緊迫した状況になったのでは……。
かおり:私はかかっていこうと思ったんですが、撮影のスタッフも端っこでスタンバイしているから、手を出せないわけ。私が尊敬していた5個上の先輩に、「こんなの冗談じゃないっすよね」と言ったら、「かおり、相手を立ててやんなよ!」と言われちゃって。私はこの先輩に言われると弱いんだよね。だから、赤い特攻服を着た奴らに、「今回は写りたかったら写っていいけれど、終わったら帰れよ、二度と関わるな」と約束させました。
――結局、赤い特攻服のレディースは写真に収まったんですか。
かおり:それが、よりによって最前列に写っているんですよ(笑)。私なんか、真ん中の後ろあたりにサラシを巻いて写っているだけ。ひどくないですか。
倉科:僕は編集者としてこの撮影に立ち会っているんです。でも、そんな揉め事があったなんて、全然知らなかったな。かおりちゃんは当時からオーラがあって、雰囲気も大人びていたし、話も上手だったんだよね。後から、女族を作る前にクラブのママをやっていたと聞いて納得しました。
読者からのファンレターが殺到
――掲載後の反響はいかがでしたか。
かおり:反響が来たのが2ヶ月後くらいですかね。「ティーズロード」が出て、私たちは記念になったねと満足していました。すると、倉科さんから「かおりちゃん個人の取材をしたいんだけど、いい?」と電話があったんです。チームじゃなくて私個人なの、とびっくりしました。だって、載った写真ってさっきも言ったけれど、サラシ一枚で、しかも最前列でもないんですよ。
倉科:かおりちゃんの写真が載ったらファンレターや似顔絵が来て、とにかく読者の反響が凄かったんです。僕が取材したときにかおりちゃんから感じたオーラを、読者も誌面から感じ取ったんでしょうね。
――ファンレターが届くようになり、かおりさんの心境に何か変化はあったのでしょうか。
かおり:何度か掲載されるようになると、毎号の人気投票で私も上位に入るようになりました。私の似顔絵を描いてくれた子もいたし、人生相談もよく受けましたよ。印象に残っているのが、親の虐待を受けている子からの手紙ね。親が構ってくれなくて、不良になりたいけれどどうすればいいんですか、と聞かれました。ほかにも、いじめられているから相手にどう立ち向かえばいいのか、とか。私も必死に考えて返事を出していましたよ。
――かおりさんは女族を引退後、18歳で「ティーンズロード」のビデオのレポーターをやったり、誌面では他のチームの取材も行ったりと多彩に活躍しています。
かおり:よく、地方のレディースのチームを倉科さんと一緒にレポートに行きました。最初の取材で、私は絶対に喧嘩になると思ってドキドキしながら行ったら、全然逆で、みんなめっちゃフレンドリーなんですよ。「かおりさんだー!」「写真を撮ってください!」と寄ってくる子ばっかり(笑)。仕事はいろんなところに行けて、楽しかったですよ。