千葉雅也 × 速水健朗が語る、テクノロジーと創作の共進化 「マルチウィンドウは再評価すべき」

千葉雅也×速水健朗『エレクトリック』対談

マルチウィンドウ的発想

速水:ちなみに千葉さんは、影響を受けている小説家などはいるんですか?

千葉:1990年代から2000年代に読んだものは自分の中に残っていると思います。東京に出てきた頃、阿部和重さんの『インディヴィジュアル・プロジェクション』といった初期作品の印象は鮮烈でした。でも、一番影響を受けたのは、BL的とも言える小説を書いていた長野まゆみさんかもしれない。少年同士の友愛を描いたバディもので、高校時代にその批評も書きました。長野作品がまずあって、そこから稲垣足穂を知ることになりました。大江健三郎だとかを読んでガツンと来た、みたいな文学青年では全然なかったです。村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』などにしても、だいぶ後になってから読みました。

 他の作家の小説を読む際も、細部に全てが凝縮されているという思想は一貫しているので、細かいところの呼吸を感じることを重視しています。どちらかというと僕は音楽と美術の人間で、小説もナラティブをどう練り上げていくかという発想ではあまり作っていなくて、視聴覚があり、五感があり、感覚の構成を言語でやっているというイメージです。

速水:なるほど。阿部和重、村上龍という作家に影響を受けているのは、僕の読書の経歴ともかなり近いです。この2人は、映像的な作家というのはわかります。村上龍は『コインロッカーベイビーズ』以降は、明らかに映画を意識した作風になっているし、阿部和重はいうまでもなく映画への意識が強い。ただ『エレクトリック』の作風は、それらとも違っていました。例えば、人物についての描写に使われていた記述が、次の風景や物質を記述する表現と接続されていたり、なんだろう、同じフレーズが次は別の楽器でなっているみたいなことが延々と行われるというか。そこが印象的でした。

千葉:リズムや構成は音楽的なイメージで作っていますね。文章に韻文的なところがあると思うし、ある描写の後に外し的な台詞がきて、外れたところで回収せずに次のシーンにいったりとか。音楽では和音が外れたところで綺麗に回収しないまま、次の展開にいった方がかっこよかったりするし、ゴダールの映画のモンタージュも回収しないまま進んだりするじゃないですか。そういう感覚は、僕にとっては因果関係よりも重要です。一つのショットの中にあるオブジェクトや空間構成が次のショットにどう影響を与えるか、とか。

速水:なるほど。視聴覚的というところでは、小説家はどこまでを個人の作業で、どこまでが編集者やデザイナーとの協業なのかという線引きについても関心があるんですけど、例えば、カバーデザインとか装丁みたいなところは自分でも意識はしますか?

千葉:カバーデザインも含めてある程度僕も関わっています。『デッドライン』と『オーバーヒート』もヴォルフガング・ティルマンスの写真を使っていたので、その流れです。他の本に関しても、自分でラフを描いたりしています。父はかつて広告代理店を経営していて、中学の頃、会社にDTPを導入するために、僕にもマッキントッシュを与えて実験させたんですね。だから僕はワープロではなくDTPソフトで文章を書き始めて、大学のレポートも最初はクォーク・エクスプレスでデザインしていて、卒論を書く段階になって「どうも学問にデザインはあまり関係がないらしい」と気付きました(笑)。コンピュータで音楽も映像もデザインもできるのに、どうして論文ではテキストだけなんだと不思議に思っていたくらいです。

速水:音楽やデザインって、コンピュータだと初期から最終段階まで、ほぼ1人で全体の過程をカバーできてしまう。以前は分業が当たり前だったと思います。その分岐の時代が90年代だった。千葉さんの場合、あらゆる創作のベースにあるということですよね。

千葉:そうですね。僕の小説ではDTMで音楽制作をするシーンが出てきますが、実際に高校の時からロジックやキューベースを使っていました。短いフレーズの部品を複数のトラックに並べて、順序と重なりを考えて楽曲にしていくんです。僕はよくセリー(複数の要素を一定の順序に配列したもの)という言葉を使いますが、クラシックの現代音楽には、音程、長さ、強さなどを何らかのルールやコンセプトで展開させたセリーをベースにする——和音とメロディーという古典的関係ではなく——構造的な作曲法があり(ピエール・ブーレーズなど)、僕はそういう前衛も念頭に置いてマルチトラックということを考えています。スクリブナーもそうした感覚で使っていて、あれは文章のセリー主義ですね。ただ、スクリブナーで作り込むと構築性が強くなりすぎるので、普通のワープロでフリースタイルでがしゃがしゃ書いたりするのとミックスしています。ここまで話しちゃっていいのかな(笑)。

速水:手法の話はすごく興味深いです。打ち込みの音楽でも、短いサンプリングをループするヒップホップと、シンセベースから生まれるハウスだとルーツとなる機材がまったく違う。ツールやソフトの思想の違いがはっきり出ますね。小説でも手書き、タイプライター、ワープロ専用機、パソコンではまるで違いますよね。ツールの違いは、その人が読んできた作家の系譜とかよりももっと抜本的に作品の差異を生み出す気がします。

千葉:多くの人はワープロ以降、テクノロジーが小説を変えているとは思っていないかもしれないけれど、情報処理ツールは色々とありますからね。AIを持ち出すより前に語れることがある。多分、語ってもくだらないと思われている部分にこそ、すごく大きなポイントがあるんですよ。僕はスクリブナーの解説本を書いている向井領治さんとか、ノート術の本を書いている倉下忠憲さんといったライフハック論の方々と、テキストをどのようにマネージするかという話をよくするんです。作家は具体的な創作方法を隠すことで作品に魔法をかけているわけですけれど、そういうテクノロジーを使った創作論も面白いと思うんです。

速水:僕は90年代は雑誌編集者だったので、書き手、描き手のツールの変遷はまさに目の当たりにしました。手書きのテキスト原稿は、実は経験がないんですけど、プリントアウトした原稿をファックスで送るという作家や、ワープロ専用機で3.5インチのフロッピーディスクを受け取りに行ったことがあります。絵の場合はもっと多様で手描き、コンピューター上、コンピューター上の作品を出力してさらに手描きで加えるケース、いろいろ実験を経た上で、デジタル上ですべてがつくられるようになった。ちなみに僕は、最近書いた本(『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』東京書籍)で、小説家たちが手書きからワープロに切り替え、パソコンになった時期を調べてみたんです。書斎の写真なんかを見て調べるんですけど、デジタル化で早いのは80年代初頭に安部公房がワープロ専用機を使い始めているんです。実験的に取り入れているけど、その後の作品が全部ワープロで書かれているわけではなさそうだなと。初期のワープロは、かなり不便そう。同じように、90年代前半くらいだと手描きとワープロを併用していたというハイブリッドな作風の作家も結構いたんです。

千葉:ワープロの登場時は、それによって書き方や思考の仕方も変わると指摘している本がありました。奥出直人さんが1991年に書いた『思考のエンジン―Writing on Computer』などがそれですが、ワープロによって組み替え可能性が高まって、時間体験や空間体験が一本筋で進んでいくリニアなものじゃなくなるという発想は、当時はすごく斬新でした。ドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」という概念は、大まかに言えば、どんなことでもつなげられるという意味ですが、ついにそれが実現されたみたいな感覚があったわけです。でも、今はそれが当たり前になっていますよね。当時、多くの人が抱いていた、複数の可能性が同時に広がっていくことに対するワクワク感や、何がどう繋がるのかわからないということへの期待は大事にしたいです。

速水:後の世からはツールの移行期に何が起きていたのかは、掴みづらい。Windows 95が登場してインターネットが普及したみたいに、かなり混濁した記憶が定着してしまう。本当は、ちょっと前に実は重要な変化が、いくつか同時に起こっていたみたいなことが多い気がします。

千葉:そうですね。iPhone以降、マルチウィンドウは実は効率が悪いという風潮になって、コンピューターもシングルウィンドウ化が進んでいるじゃないですか。でも、マルチウィンドウはすごく衝撃的な体験だったし、僕は再評価すべきなんじゃないかと思っています。マルチウィンドウは現実世界のデスクの素朴な反映なんですけれど、画面の中に画面が複数あって、それをつまんでズラしたりできるという体験は驚くべきものでした。コピー&ペーストと同じくらい偉大な発明だったと思うんです。

速水:コンピューター上のデータは、テキストであろうが画像だろうが自由にコピー&ペーストができるって、そもそも強烈な思想ですよね。セキュリティー側とか権利強化の発想とはもともと相容れないはず。最近は、スマホ世代がコピペに頼らないとか、自明なものではなくなりつつある。マルチウィンドウっていつ誰が発明したんだろう。

千葉:僕の小説や哲学や音楽は、マルチウィンドウ的発想から生まれているところがある。世界がマルチに広がっていくことで、いろんな逃げ場ができるというのは、まさにマイノリティの生き延び方です。マルチウィンドウ的な感覚をもう一度、開放していくことこそが大事なんじゃないかと、最近はよく思います。

速水:実は僕も最近ノートPCを買い換えて、画面サイズを2回りほど大きいものにしたら、「あれ、こんな使い方できたの?」って、20年ぶりくらいにマルチウィンドウの環境に驚いているんです。ウィンドウがマルチになった瞬間ってコンピューターの歴史的にも、何かが始まった重要な瞬間だった気がしてきました。

千葉:今後、iPhoneのようにシングルウィンドウで没入を切り替えていくというモデルになると、人類もよりシングルウィンドウ的になっていくのかもしれない。マルチウィンドウは、常にメタ意識があって、後ろや横にもウィンドウがあるというイメージですよね。だからこそ、80、90年代の「なんちゃって感」だったり、ちょっと引いた視点からのアイロニーが成立していたんだと思います。でも、一つひとつに没入するとなると、なんにせよ脇目も振らずコミットすべきだという狭量な発想になってくる。昨今のそういう息苦しさは、シングルウィンドウの画面が作用しているんじゃないかとさえ思います。

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