歌人・東直子『レモン石鹼泡立てる』を読む「永遠に忘れてしまう一日」と「永遠の世界」を紡ぐ本のチカラ

東直子『レモン石鹼泡立てる』書評

 

〈永遠に忘れてしまう一日にレモン石鹼泡立てている〉

 これは歌人で作家の東直子さんの短歌で、歌集『青卵』(本阿弥書店、2001年)に収録されている。東さんの書評やエッセイをあつめた『レモン石鹼泡立てる』(共和国)のタイトルは、この短歌からとられた。

■忘れてしまうことに対する抵抗

 この短歌に触れたとき、筆者は「永遠に忘れてしまう一日」ってどうしてわかるのだろう、と疑問に思った。でもたしかに永遠に憶えている一日なんてほとんどなくて、たいていの日々は忘れてしまう。忘れてしまうことのほうが自然なのに、「永遠に」なんて言われると、とてもおそろしいことのように思えてくる。

 それにレモン石鹼は、昔の学校の水道の蛇口によくぶら下がっていたやつで、古くなったり固まっていたりしてぜんぜん泡立たなかった。それを泡立てているって、静かだけどとても必死な感じがする。泡立たない石鹼を泡立てようとすることの必死さと、永遠に忘れてしまうことのおそろしさが重なる。もしかして、レモン石鹼を泡立てることで「永遠に忘れてしまう一日」を必死で忘れまいとしているのではないだろうか。

 東さんの過去の著作『東直子集』(邑書林、2003年)のあとがきに、こんなことが書いてある。

 書きとめなくては、伝えておかなくては、忘れてしまう、消えてしまう。ともすると、とりとめもなく時間を流してしまうけれど、今しか書けないものを、ふんばって書いておかなくては。

 東さんはその思いでずっと書いてきたのではなかろうか。短歌や小説、書評やエッセイを。

 だとしたら、2000~21年までに発表した書評・エッセイ等から43篇がまとめられた『レモン石鹼泡立てる』には、「忘れてしまうことに対する抵抗」みたいなものがあると思う。忘れないように、消えてしまわないように、レモン石鹼を泡立てるように必死に、ふんばって、書きとめてきた数々の文章が、この一冊に収められている。

■消えてゆく光と永遠の世界

  光は、消えてゆくために光っている。それを見つめるということは、消えてゆくものに、なすすべもなくさようならを言っているようなものなのだ。

 『パレード』(川上弘美)の書評の中で、東さんはこう書く。「ものすごく悲しくて、でもきれいな光」が、『パレード』と『センセイの鞄』の二つの物語を結びつけているという。そして、自身の短歌を思い出す。

〈ふたりしてひかりのように泣きました あのやわらかい草の上では〉

  「ひかりのように泣く」ってどういうことだろう、と筆者は思っていたけれど、もしかしたら「消えてゆくものに、なすすべもなくさようならを言っているよう」に、ふたりして泣いているのかもしれないと思った。ここにも、消えてしまうことに対するどうしようもなさがあるけれど、でもそれを短歌にすることで、そのひかりは永遠に閉じこめられている。

 みんな光を見て、むしょうに悲しがっている。(中略)みんなやさしい。やさしくて、少しばかり変で、しかしまっとうな精神に裏打ちされて、ちゃんと自立して生きている人々ばかりである。好きだな。こんな人たちばかりのいる世界に棲み続けることができたらいいな、としんそこ思う。

 そして、この『パレード』という物語は「きっと作者の中でも、読者の中でもなんどでも生き直して続けてゆくのだろう」と東さんは言う。

 パレード、そうだ、それってパレードみたいだ。(中略)ひとつのかたまりが過ぎ去ったあとも、道の向こうからまたあたらしいなにかがやってくるのを待つ。待ちわびて、胸にほんの少し淋しさが浮かび上がろうとしたとたん、それはやってくる。くりかえし、くりかえし、永遠に。

 物語は、パレードのように、くりかえし、なんどでも、作者の中で、読者の中で、永遠に生き直し続ける。

 書いた人が、読んだ人が、どんなに変わっても、たとえこの世にいなくなったとしても、どんなに時代が移り変わっても、本の中の世界は、永遠だ。

 『すきまのおともだちたち』(江國香織)の文庫解説で、東さんはそう断言する。書きとめなければ忘れてしまう、消えてしまうことも、本の中に閉じこめてしまえば、永遠だ。『レモン石鹼泡立てる』にも、そんな永遠の世界が閉じこめられている。

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