手塚治虫『魔法屋敷』はなぜリメイク原稿が描かれた? 藤子不二雄(A)が所蔵していた未発表原稿掲載の復刻版を考察
2月10日に立東舎から、手塚治虫の漫画・復刻版『魔法屋敷』が発売される。この単行本に、手塚の未発表原稿40枚が初めて収録されることになった。昨年死去した藤子不二雄(A)が保管していた『魔法屋敷』のリメイク原稿の一部である。
『魔法屋敷』は、初の単行本が1948年に不二書房から刊行されている(今回の復刻の底本は1952年に出た三玉書房版であるが、こちらの方がより希少な単行本で、初の復刻となる)が、今回収録されるリメイク原稿は1950年ごろに描かれたものだ。なぜ単行本が出た後に同じ作品の原稿を描くのか、と思われがちだが、手塚は過去の作品を何度も描きなおすことで知られ、リメイクをたびたび試みている。
多忙を極めた手塚が、『魔法屋敷』のリメイク原稿を描いた理由ははっきりとはわからない。理由として考えられるのが、オリジナルの単行本が「描き版」という技術を使い、出版されたことである。描き版は現在の写真製版とは異なり、原稿の線を専門の職人がトレースして、印刷用の版下を作る技術である。戦後間もないころの漫画単行本は描き版で製作されたものが多い。
つまり、手塚の原稿がそのまま印刷されるのではなく、第三者の手を介するため、どうしてもオリジナルのペンタッチと異なってしまうのだ。癖のある職人が担当すると大変だ。職人の癖が出てしまい、別物のような絵で出版されてしまうこともあったという。
研究者の間では、描き版の技術について議論がある。戦後の混乱期ということで稚拙な技術とする意見があったが、漫画家のペンタッチを忠実に再現できているとする見解もある。しかし、手塚は『手塚治虫漫画全集』のあとがき(実質的な作者による作品解説)でも描き版に言及していることから、相当な不満を持っていたと考えられる。
『魔法屋敷』の前年に、手塚の名を知らしめた『新寳島』が出版されている。この作品は藤子不二雄(A)や藤子・F・不二雄など、リアルタイムで読んだ多くの漫画家が衝撃を受けたとされ、戦後の日本漫画史における最重要な作品である。とりわけ、藤子(A)が『まんが道』で取り上げたことで広く知られるようになり、手塚神話が生まれるきっかけを作った。だが、手塚自身は生前、『新寳島』の価値については否定的であった。
『新寳島』を『手塚治虫漫画全集』に収録するにあたり、講談社の担当者と手塚の間で議論があった。その顛末は『手塚治虫漫画全集』版『新寳島』の巻末に収録されているのでぜひ読んでほしいが、手塚は最後まで頑なに全集への掲載を拒み、完全な描き直し、つまりリメイク原稿の掲載で決着した経緯がある。手塚の死後、ようやく『新寳島』の完全な復刻版が出版されるに至ったのである。
描き版時代の手塚の原稿はほとんどが散逸している。したがって、今回の『魔法屋敷』の原稿は、当時の手塚のペンタッチを知ることができる極めて貴重な資料といえそうだ。