『深夜特急』沢木耕太郎、なぜ再注目? ベストセラー新刊『天路の旅人』の圧倒的なおもしろさ

沢木耕太郎「天路の旅人」書評

 沢木耕太郎が昨年刊行した長編ノンフィクション『天路の旅人』(新潮社)が大きな話題を呼んでいる。掲載文芸誌『新潮』8月号を完売させ、単行本はリアル書店・ネット書店ともに売り切れが続出し、重版が決定。今年の1月にはNHK「クローズアップ現代」で単独インタビューが放送され、SNSでは「今すぐ旅に出たくなった」といった感想が相次いだ。なぜ、ここまで人々を魅了しているのか。

 沢木が四半世紀もの時間をかけた史上最長編で、単行本ハードカバーにして576頁の大ボリューム。第二次世界大戦末期、敵国・中国大陸の奥深くまで「密偵(スパイ)」として潜入した日本人・西川一三の生を活写している。25歳の時にチベット仏教であるラマ教の蒙古人巡礼僧になりすまし、敗戦後にいたるまで8年間ものあいだ果てしない旅を続けた。沢木は「この希有な旅人のことを、どうしても書きたい」と強く共鳴したという。

 本書を一読してまず魅せられたのは、その導入の巧みさである。沢木が関心を持った経緯が生き生きと綴られ、多くの読者にとっては未知なる人物・西川一三に対して、好奇心がそそられるようになっている。

 西川は『秘境西域八年の潜行』(1967年)という書物で遍歴の一部始終を記しているものの、沢木はその全体像は把握しにくかったという。そこで岩手・盛岡で化粧品店を営む、80歳を目前に控えた西川に何度も取材を重ねた。そうしたインタビューと著作を手掛かりに、彼の中国、チベット、インドなどの足跡を丹念に辿っていくのだが、沢木はその動機を次のように記す。

「私は、すべてが終わり、すべてがわかったところからの視点ではなく、まだ何もわからず、何も経験していない、旅の初心者、新人のところから、徐々に経験し、徐々に理解し、徐々に逞しくなり、真の旅人になっていくプロセスが知りたかったのだ」(第一章 現れたもの)

 現代を代表する紀行作家の大御所・沢木だが、筆の運びとそれを支える好奇心の若々しさには驚愕させられる。旅のプロであることに安住せず、むしろ小さな出会いに新しさを発見するアマチュアであろうとしている。僭越な表現を承知で言えば、まるで異国の地に渡った経験のない少年が、いつか旅することを夢見ているかのようなのだ。読者はその思いを文で追体験することで、間違いなく引き込まれていくだろう。

沢木耕太郎

 続いて魅力的なのは「読むこと」と「旅すること」の一致を、他ならぬ沢木が実践しているということだ。紀行小説『深夜特急』をまるで自分が旅しているかのように読み耽り、読後には自身の旅を夢見た読者は多いはずだ。

 沢木は数多の資料を細部まで渉猟する。西川の計50時間に及ぶ取材、家族、担当編集者、関係者の取材、先述した著作と文庫版、朱字の多く入った生原稿3200枚、新聞記事、当時を知る人の著作...。膨大な量を徹底的に読み込み、その生を立体的かつ重層的に浮かび上がらせていく。

 たとえば、西川は著作において「密偵として潜入せよ」という命令書を、なんと時の総理大臣・東条英機からもらったと書いていた。しかし沢木は常識的に考えて、総理大臣から異国の一スタッフに対して命令があったとは思えないと考える。そこで西川の元原稿を確認すると、編集者のものと思われる朱字で「総理大臣東条大将の」と書き加えられていたのだ。さらに関係者の著作などから鑑みると、おそらく命令書自体は存在しなかったが、上司に口頭でそうしたことを伝えられたのではと推測する。その話を聞いた編集者がセンセーショナルな一語を書き加えたのではないかというのだ。そのように、些細な細部にまつわる真相を探っていく様は、まるでミステリーを読んでいるかのようなスリルがある。

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