松井久子が語る、歳月を重ねることで得られる豊かさ 「人生経験を積んできたからこそ、“最後のひと”とも出会えた」

松井久子が語る『最後のひと』との関係

私の書いていることは特別じゃない


――『最後のひと』の燿子のお相手・仙崎理一郎は前妻との結婚を“擬制の結婚”ではないかと考える場面があります。「擬制」という言葉も印象に残りました。

松井:これは、私の夫の言葉です。夫は学者で、小説でも理一郎を哲学者にしました。私もはじめて聞いたとき、「どういう字を書きますか?」と聞き直したぐらいです。多くの結婚が「擬制」という考えも取り入れることで長く良い関係を続けることができる。その「擬制」ということを夫は学者として生真面目に問い続けていますが、私にはそういうふうにことをうまく収めるために少しだけ嘘をつくようなことができなくて、本当に良い状態のところだけを大事にして、恋愛をしたいと思って生きてきました。でも、「擬制」を選ぶことと、私のように嘘のない生き方を選ぶこと、どちらもそれぞれの生き方だと思うんです。

――燿子と仙崎の出会いはミシェル・フーコーに関する講義です。フーコーは松井さんの血肉になっている書物なのでしょうか。

松井:仙崎が学者であることからフーコーを登場させましたが、もうひとつ、私たちの世代感を出したかったという思いがありました。私たちの世代って、今の若い人たちより、断然、社会と繋がろうという意識が強かったんです。ベビーブーマー世代で人口が多かったから、私たち若者が、学生が世の中を、社会を変えるんだという信念を持っていました。残念ながらその理想は挫折で終わります。そのとき味わった痛みなどを非常に控えめに書き残しておきたいという思いはありました。フーコーはまさにその時代の象徴で、大学教授であった彼はフランスで起こった五月革命のとき学生を支援しています。仙崎と夫にフーコーを、燿子と学生だった私をパリの5月革命時代の学生たちに重ねているところもあるんです。サルトルでもいいけれど、私の好みがフーコーだったのね。彼の佇まいや雰囲気が好みだった(笑)。

――もし、燿子の人生を描いた第3弾があるとしたら、耀子の「結婚」生活になるのでしょうか。

松井:それはないと思います。私自身は結婚したけれど、小説に結婚までは書きたくないという思いがすごくあって。『最後のひと』も恋愛だけ描いたのは、結婚という不純な社会のシステムが介入するとピュアな男と女の、本当の意味での出会いや結びつき方が壊れてしまう気がしたからです。結婚――籍を入れることは面倒くさいことが多いですよね。苗字をはじめとして口座の名義など、女性が変えなくてはならないことばかりあって。結婚とは最低の社会制度の契約で、割を食うのは全部女性。せめて夫婦別姓、選択的別姓制度が早く通ってほしいと思いながら、ずっと“松井久子”で生きてきたにもかかわらず、今更「子安さん」と呼ばれるなんて……と今、思っていますが、と同時に、Facebookで「結婚しました」と書いたら、実に多くの方から、「おめでとう」のコメントがついて、“結婚”の力の凄さに驚かされてもいるんです。

――映画監督でもある松井さん。『最後のひと』を映画化しようとは考えないですか。

松井:『疼くひと』よりは可能性はあると思います。『疼くひと』は赤裸々なセクシャリティーをいかに文字にするかに意義を見出して挑んだものだから、決して映像化したくないし、映画にはならないでしょう。『最後のひと』は性的なことも描いてはありますが、老いた者にまつわるたくさんの要素も盛り込んで、老いた身体のみならず、老いる精神性の部分にも分け入っていると思うから映画になるかもしれないわね。積極的に映像化したいとは思わなくて、映画化しようと思いませんか?と聞かれたら、作りようによっては可能かもしれないと答える程度だけれど。

――まずは第3作めに何を描かれるか楽しみです。

松井:困ったな(笑)。映画監督をやったときもそうでしたが、プロとしては全然足りていないと思っているんです。プロと思ったことがないというか、それが私の作り手としての個性なのかもしれないなとすら思います。アマチュアリズムの中で、自分をぶつけてみるというやり方なのかもしれません。

――ご謙遜とは思いますが、逆にそれぐらいの方が大衆には響くのかもしれないです。

松井:映画を5本作って思ったのは、自分が作った映画を仲立ちにして、全国の女性たちとたくさん出会ってきて、そのとき私は常に、オーディナリーピープル――「普通の人々」の代表であって、決して特別な人ではないという思いがありました。だからこそ私の考えていることは、隣のあなたも考えていることだよね、北海道に住む彼女も、九州に住む彼女も考えてることだよねということをリアリティを持って信じられたんですね。そう思いながら映画を作って全国を歩いてきたから。その感覚が小説を書いてるときもブレずにありました。「私の書いていることは特別じゃない、私の考えていることは、たぶん、今の日本を生きているたくさんの人々が考えていることよね」と思えることが、私の強みかもしれません。少なくとも同世代にはね。

――同世代に限らず、たぶんもう下の人も読んで、響くことがきっといっぱいあると思います。

松井:別の取材で話したのは、むしろ同世代の方だと『疼くひと』も『最後のひと』も、ある種、自分たちにできないことをやれていることへの反発もあるかもしれなくて、それよりちょっと下の世代の人たちが、「老いても生き生きと輝いて生きられるのかもしれない」という希望を感じてくれたらすてきだなと思います。

――前作は僭越ながらそのセクシャリティーをいかに文学にするかに挑もうと根を詰めている気がしたのですが、今回の作品はひとつ乗り越えて自由になったかのようで、すごく明るい気持ちで読むことができました。

松井:ほんと? それはうれしいな。ついこの間までは「70代や80代の恋愛やセックスなんて気持ち悪い」という感覚だったじゃないですか。けれど、自分が当事者になってみると、気持ち悪いなんて言われたくないと思うようになります。例えば海外にいる私と同世代の日本人の女性は「こんなの当たり前よ」「全然特別じゃない」とみんな言うの。この年齢で恋愛を特別視するのは日本だけだと。それはなぜかというと、日本の社会は、それこそ「擬制の結婚」じゃないけれど、制度が独り歩きしているんですね。でも、欧米の人たちは、若いうちから愛情がなくなったら離婚して新しい出会いを求めるんです。それを繰り返しているから高齢者の恋愛も当たり前になるんです。そこに社会の大きな違いがあるのかなと感じます。

――ジェンダー差別のみならず年齢差別的なことも考えるべきですよね。欧米だと履歴書に年齢を書かないのに、日本は年齢が必須です。

松井:そう、日本社会は、年齢のギャップ、年齢に対する偏見が、ジェンダーと同じぐらい根強いですね。特に女性の年齢に対しては偏見が多い。かといって、私は“エイジレス”を訴えたいわけではなくて、そもそも“エイジレス”は若者偏重じゃない(笑)。それよりも、歳を取ることで人生は豊かになるということを言っていきたいな。歳をとることはステージが上がること。若い頃の私は、こんなふうに小説に書けるようなことを考えていたわけではなくて、人生経験をいっぱい積んできたからこそ、今ここに至っているし、“最後のひと”と言えるひととも出会うことができた。世の中のステージもちゃんと上がって、豊かな大人の文化がもっと育っていくことを願っています。

■書籍情報
『最後のひと』
松井久子 著
発売:11月21日
価格:¥1,760
出版社:中央公論新社

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