根本宗子『もっと超越した所へ。』インタビュー 小説、戯曲、映画脚本を書き分けて見えてきたもの
好きな人と一緒にいる楽しさを文字で残す
――本作には男女8人のキャラクターが登場します。小説版では、序章のエピソードを含め、それぞれのバックグラウンドが細かく描かれていますね。どのように肉付けしていったんでしょうか。
根本:前作の小説(『今、出来る、精一杯。』)もそうだったんですが、基本的に演出家として自分が言ったことを書いています。舞台稽古中って、シーンにはない、キャラクターのエピソードも話しているんですよね。舞台版からかなり時間が経っているので、当時言ったことを全ておぼえているわけではないんですけど、こういう人だと思って書いていたなと思い出しながら書きました。ただ、映画脚本と同じように、戯曲も稽古場で役者が演じる動きなどにヒントをもらってセリフを足して作っていったので、そういう意味では役者の力も借りて、キャラクターを本当にそこにいる人たちのように見せることができていたんだと思います。なので、小説は1人で8人のキャラクターを書き分けなくてはならないのがタフな作業でした。
――物語のほとんどは4人の女性の視点から描かれていますが、女性陣だけでもキャラが全然違いますもんね。デザイナーの真知子、ギャルの美和、シングルマザーの風俗嬢・七瀬、子役上がりの俳優・鈴と、決して交わることがなさそうな4人です。
根本:そうなんです。それぞれのキャラを書いている時は、自分とは別の人格で書いているような感じでした。私自身からすると「何言ってんだ、この人」と思うことでも、書いている最中だけは、それぞれが言うことを信じて書いていたんですよね。だから、小説執筆中は4人が自分の中にいるのでけっこう気が狂いそうでした(笑)。
――前作の小説も本作も、モノローグで物語が進んでいく形で、セリフも多く、演劇的だなと感じました。それには何かこだわりが?
根本:やっぱり、ずっとセリフを書いてきたので、しゃべり言葉で届けるほうが今の自分の技量としてもいちばん届くだろうなと思うんです。自分が書いていて楽しいというのもあるんですけどね。
今回の小説版は映画のノベライズ扱いでもあって、映画を見た人が読んでシーンを思い出す材料にもしてほしくて、映画のセリフはほとんど残すようにしました。すべて一人の作家が担当しているからできることですよね。なので、セリフが多くなることを気にせずに書いています。映画の脚本は、戯曲の中でも自分が好きなセリフたちを残すようにして書いたので、厳選されたセリフなんです。中には本当は削りたくなかったものもあったので、小説版では復活させているものもあります。
それに、セリフの掛け合いだから面白くなるシーンってあるんですよね。例えば、美和と彼氏の怜人(ヒモ男のYouTube配信者)がケンカをするシーン。高校時代のダンス部の集まりに行くという美和と、何人ぐらいがまだダンスをやっているのかと突っかかってくる怜人のやりとりは、ただの描写よりもセリフだからにじみ出てくるウザさがあると思います。「そういう言い方をしてくれるなよ」といった、生々しさもこの作品の魅力の一つだと思うので、そういった部分は積極的に残しました。
――映画や小説では、コロナ禍という背景が物語に付け加えられています。何か狙いがあったのでしょうか。
根本:映画化の話をいただいたのはコロナ禍より前でした。だけど、制作途中でコロナ禍になり、日常を生きていたはずなのに、突然ウイルスがやってきて、いろんなことがガラリと変わってしまって……。マスクや手洗いも人によってしたり、しなかったりと、それぞれの人間性や価値観、生活の違いがまた一つ分かりやすくなったタイミングだったので、異なる4組の群像劇を書くうえで要素として入れたほうがいいなと思ったんです。
特に、物語のほとんどが家の中での出来事と、表現できることにも制限があるので、家に帰ってきた時の描写はそれぞれの違いを描くうえで大事になってくるなと感じました。結果として、うまく時代に寄り添った作品にできたかなと思います。
――戯曲、映画脚本、小説と書き分けてみて、何か発見はありましたか。
根本:やっぱりどれも別物だなと思いましたね。物語の筋としては同じでも、ラストのクライマックスに向けて全く同じ手法は使えないので、物語を考えるうえではとても勉強になりました。3パターンやってみて、映画も小説も、演劇をやっていたからこそ思いついたアイデアだったので、やっぱり自分には演劇がいちばん向いているんだろうなと思います。
――クズ男だけでなく、クズ男に沼ってしまう自分たちをも愛していこうとする女たちの力強さに、本作は恋愛讃歌の物語だなと感じました。根本さんは、恋愛の幸せって、どんなところにあるとお考えですか。
根本:自分のためだけだとできないことが、他人のためならできるのが恋愛の醍醐味なんじゃないかなと思っています。例えば、私は家の片付けが嫌いなんですけど、好きな人と住んでいたら、その人が快適に過ごしてほしいから片付けられる。で、結果的には自分もきれいに片付いているほうがいいんですよね。本当に私は自分のために生きられないということを年を重ねるたび痛感しています。
――自分1人だと、とたんに腰が重くなって怠け者になっちゃうんですよね。
根本:1人だと、自分の中での「別にこれでいいから」という意地のようなものが凝り固まっていってしまう気がするんですよね。それこそ、物語に出てくるフリーターの泰造みたいに、自分を納得させるために「汚い部屋のほうが免疫がついていい」みたいな謎の理論を唱え出すじゃないですか。
全てを相手に合わせるということではなくて、人といることで自分自身が変わって楽しいこともあると思うんです。年を重ねるごとに、そんな風に、人と関わり合うことを楽しめるようになってきました。
以前は基本的に「なんで私のこと分かってくれないの!」と怒っていることが多くて、舞台版はそういう怒りの熱量を“おもしろ”の方向に振ってエンタメ作品として書いたものなんですよね。映画もその要素を残して作ってくださったので、スカッと笑える最後になっていると思います。だけど、小説では、好きな人と一緒にいることの楽しさや大事さを文字で残しておきたいという気持ちもあって、そういう言葉で締めくくりました。恋人だけじゃなくて、大事な友人や家族に対して、もっと言えば人と共存していくことに対して、今の、32歳の私が思っていることを残したいという思いが小説を書くうえではあったんだと思います。