藤本タツキ原作『フツーに聞いてくれ』に感じた“必ず伝わる”という確信 漫画に対する批評を考える
伝えたい人にさえ伝わればいいという希望
それにしてもこの作品、はっきり言って非常に論じにくい作品ではある。なぜならば、『フツーに聞いてくれ』というタイトルには、明らかに原作者の、(私の漫画は)「フツーに読んでくれ」というメッセージが込められており、それはつまり、“考察”や“批評”の拒絶をも意味している(ように思える)からだ。
たしかに、藤本タツキは、初の長編連載作である『ファイアパンチ』から近年の『ルックバック』、『さよなら絵梨』に至るまで、極めて批評家好みの謎めいた漫画を描き続けており、数ある考察・批評の中には、多かれ少なかれ作者の意図せぬ“深読み”もあったことだろう。また、そうした状況がこれから先も続くことに、嫌気がさしているのかもしれない。
しかし、改めて考えてみてほしい。『フツーに聞いてくれ』という作品から、「フツーに読んでくれ」という作者の声を読み取らない読者はまずいないはずだが、そうした“解釈”自体が、すでに“批評”的な行為なのである。
では、我々読者は一体どうすればいいのか。その答えは簡単である。というよりも、実ははっきりと物語の最後に描かれている。
つまり、作者(藤本タツキ)は、誤読を含めた多様な解釈を(モノによっては煩わしいと思いつつも)頭から否定しているわけではなく、むしろ、自分が伝えたいことは一定の層には必ず伝わると信じているのだ(あるいは、伝えたい人に伝わりさえすれば、それ以外の人々に、否定されようが、誤読されようが、どうでもいいと考えているのだ)。
その想いに応えるためには、読者の側にも多少は“行間”を読む力が必要だろう。だからこそ本作のラストでは、作り手と受け手が共に生み出す“希望”が描かれているのだし、そうでなければ、読書というものはなんとも味気ないものになってしまうのではあるまいか。