『3月のライオン』幸田香子は桐山零にとって“悪い魔女”なのか? 作中の心理描写から考察
桐山零に呪いをかける義理の姉・幸田香子
羽海野チカによる将棋マンガ『3月のライオン』は、2016年にTVアニメ化、2017年には実写映画化もされた、累計発行部数300万部を超える大人気作だ。
多くの個性的なキャラクターが登場する本作のなかでも、幸田香子のインパクトを筆者は忘れることができない。まず1巻の1ページ目に現れたのがーー後々にわかるが、香子だ。彼女は夢のなかで、主人公・桐山零に“呪い”をかける。
ゼロだって――
変な名前ぇ――
――でも、ぴったりよね
アナタに
だって そうでしょ?
「家も無い」
「家族も無い」
「学校にも行って無い」
「友達も居無い」
――ほら
アナタの居場所なんて
この世の何処にも
無いんじゃない?
桐山はそんな台詞のなか、目を覚ます。
両親と妹を亡くし、天涯孤独の身になった零を、香子の父親・幸田征近が引き取った。零が将棋に打ち込むことによって家族のバランスは崩れていき、零より4歳上の義姉・香子は幸田家を出ようとする。
しかし決して零だけを恨んで出ていこうとしたわけではない。零によって家族は変質し、将棋も諦めざるをえなかった香子。香子に初恋にも近い、複雑な感情を抱いていたように見える零が、結果的に幸田家を出ていくことになる。
嵐のような痛みをともなう香子の存在
2巻で零は、香子の言葉をこう述懐する。
彼女(香子)の言葉は
心のど真ん中に飛び込んできたが
怒りも悲しみも
湧きおこらず
ただただ
「その通りだ」と思った
だからこそ「プロ」に
なりたいと思った(中略)
思考を停止してしまえれば
もうここは
ゴールで
そして
もう一度
嵐の海に飛び込んで
次の島に向かう
理由をもうすでに
何ひとつ
持ってなかった
零の内面で「嵐」のたとえが出てくるのは、香子が彼の前に現れた時と似ている。
小さい頃
真昼に雷を見た
水色の空に
水銀をぽろろと
ころがしたような
淡い閃光
僕はそのはかなさに
心を奪われた
――たとえその輝きが
後に
重く激しい雨を
連れて来るのだとしても
零にとって将棋と香子は切り離せない重要な因子であることが、同じく激しい表現を用いることによって表されている。
ここまで考えて筆者は、もしかすると香子の冒頭の言葉は零自身が何度も何度も過剰なほどに繰り返し、内面化してしまったものではないか、と思うようになった。夢だからおぼろげなのかもしれないが、香子のセリフには顔が描きこまれていない。「何も無い」というのは、香子がかけた呪いかもしれないが、零自身が克服すべき問題なのかもしれない。
そして現在(22年6月時点)最新刊となるのが16巻。零は川本ひなたと温かな恋愛をしているが、いつかこの嵐のような香子と決着をつけなくてはいけないだろう。香子本人というより、むしろ零の中にいる「悪い魔女」としての香子と対峙することになるかもしれない。
筆者は断言したい。香子は嵐のような痛みを伴う人物だとしても、「悪い魔女」ではない。香子の言葉を呪いにしているのは零自身なのだ、と。