解剖学者・養老孟司が語る、コロナ禍の世界の壁「僕がやっていた解剖こそ不要不急の典型」
「いまは『まる』の骨壺をたたいている」
ーーネコの「まる」のことも聞きたかったんです。先生はよく「死は二人称」という表現をされますが、「まる」との別れは、親族や肉親との別れとは違うものだったのでしょうか。
養老:具体的だったということです。当たり前の日常が変化してしまった。ヒトは日常が変化すると、非常に大きな影響を受けるんですね。「あって当然のもの」がなくなってしまったという、不在を日々確認する感覚になりました。
ーー『ヒトの壁』には「まるの骨壷をたたいている」と書いてありました。先生は死に対してドライなイメージがあったので、驚きました。
養老:「まる」の頭をポンポンとたたく癖があったからね。いまはたたく相手がいないんです。
ーーそれは、先生の死生観が変わるほどのものだったのですか。
養老:いやいや、そんな大袈裟なものではないです。「いま、たたく頭がない」という喪失を感じる毎日だということです。先ほど「ドライ」と言われましたけれども、僕はズレているのかもしれません。個人的なことで言うと、臨床医にならなかったのは患者さんに死なれるのが嫌だったからなんです。患者さんを一生懸命診ようとすると、どうしても親身になるでしょう。そこで死なれると、そうならなかった時よりもダメージが大きい。うっかり入り込むと大変なことになりそうな気がしたんですね。
ーー患者さんとの距離の取り方が難しかったということですね。
養老:そういうことはある程度経験を経て、歳をとらないとわからないんです。本にも書きましたが、(医者だった)母には「白髪にならなきゃ臨床はできないよ」と言われたんですけれども、医者は「付かず離れず」みたいな関係が上手に作れなきゃいけない。それが僕にはできませんでした。
ーーそういう意味でいうと、ネコは「付かず離れず」ですね。
養老:そうです。初めからそうですから。それでも死なれると結構こたえる。
ーー私も昨年飼っていたネコを亡くしましたが、時々、近くにいるんじゃないかなと思うことがあります。宗教とは無縁だと思っていましたが、それでもそういうことがありますね。
養老:そういうことは当然のことで、あってもいいんですよ。
ーー先生も「たまに遊びに来ているんじゃないかな」と思うことがありますか?
養老:ありますね。部屋に入るとき、「いつもの場所に『まる』が座っていたらどうしようかな?」とかね。
ーー『ヒトの壁』には「対人よりも対物で生きるほうが幸せだと感じる人は多い」とありました。これはどういうことでしょうか。
養老:「他人の顔色をうかがい過ぎていないか」とも書きました。「対人」であると意識が中心になりますよね、どうしても。人と人との関係というのはこうやって言葉にして会話をするから、意識的なものになります。意識というのはすごくたちが悪いんです。わかりやすいように言うと、黒いペンで「白」と書くと、誰でも「白」って読んでくれます。ではその時、インクの「黒」はどこへいっちゃったんですか。意識は、実際に視野に入ってきたはずの「黒」を無視できるんですね。感覚が語っていることとは正反対のことを平気で言ってしまうわけです。それは自分が正しいと思っているからです。
「這(は)っても黒豆」という言葉がありましてね。男が2人、黒い小さなものを指して「これは豆か虫か」と議論している。そのうちその黒いものが這う、動き出す。それでも「豆だ」と言っていた男は「豆だ」と言い張るわけです。
ところが物(生き物・自然)を相手にすると、それができなくなるんですね。意識で見ずにありのままを感覚で捉える訓練ができるんです。自然を相手にしていると、意識よりも感覚のほうが優位になりますから。
ーーヒトにとって意識が邪魔になるということですか。
養老:邪魔というより、重要視し過ぎてはいけませんよね。自然に接していると、論理から外れるものや感覚を引き出してもらえるんです。ヒトは意識だけでできているわけではないですから。意識で考えたら、なんでも評価や成果を求めるばかりになって、感覚が求めるものはどんどん不要にされるかもしれません。でも、意識だけで生きていたらハッピーではなくなりますよね。