人はなぜ「させていただく」に違和感をおぼえる? 言語学者が解き明かす“敬意のインフレーション”
「店内はマスク着用とさせていただきます」。近ごろ、町で見かけるこの貼り紙の文章に、あなたは違和感をおぼえるだろうか? 意味としては「店のなかではマスクをしてください」であると理解しつつ、どこか引っかかりを感じる人もいれば、なにが問題なのかわからない人もいるはずだ。ポイントは「させていただきます」にある。
人はなぜ「させていただく」に違和感を抱くのか。それは、どのような使われ方をしたときなのか。調査・研究し、『「させていただく」の語用論』(ひつじ書房)としてまとめたのが、法政大学の椎名美智教授だ。椎名さんの専門は言語学。「歴史語用論」という、ある言葉が時代を通じてどのように使われてきたかを論じる方法で「させていただく」を調べた。
椎名さんはなぜ「させていただく」に注目したのか。そして、どのようなことがわかったのか。話を聞いた。(土井大輔)
「させていただく」は「自分はちゃんとした人間である」と示すアイテム
ーー(レコーダーのスイッチを入れて)お話を録音させていただきます。
椎名美智(以下、椎名):いま、「録音」のあと、何とおっしゃいました?
ーーしまった……。先生の前では絶対に使わないようにしようと思っていたんですけども。
椎名:私と会う方は皆さん控えていらっしゃるんですよね。別に使っていいんですけどね。使ってはいけないとは、一言も言ってませんし。
「させていただく」については、私たちが「ん?」ってなる時と、「これはOK」と思うときがありますよね。私はどんなときに人が違和感をおぼえるのかを調べたんです。針の穴から世界を見るような感じなんですが、「させていただく」から世の中を見たら、人がどんな風に人間関係を捉えているのか見えてくるかもしれないと考えたんです。
ーー人はなぜ「させていただく」に違和感をおぼえるのでしょうか。
椎名:本来は、相手からなんらかの許可や恩恵があるときに使う言葉なんです。でも今は「このたび本を出版させていただきました」のように、対象となる「あなた」がいなくても使われているんですね。「いや、私はなんの関与もしていないんですけど……」と、聞き手にとっては自分に関係のないところで行われていることにも「させていただく」を使っている。
たとえば「お話させていただきたい」を英語にすると、I’d like to talk to you.という風に「I」と「you(あなた)」が出てくる。私はこれを「あなた認知」と呼んでいるんですけど、今は「you」に関係のない動詞にも「させていただく」を使っているんですね。「受賞させていただきました」とか。「勝手にどうぞ」という感じなんですけども(笑)。
ーー「させていただく」は、いつごろから使われているのでしょうか。
椎名:「させていただく」は生まれてから100年ぐらい経った1990年頃に、爆発的にブレイクしたと言われていますが、今がもっとも使われている時期なのではないでしょうか。
さかのぼっていくと、明治時代の文明開化で、社会の身分制度がなくなりました。身分制度がなくなると、「あなた」がどういう出自かわからないんですね。「あなた」の側も私のことがわからない。そんなときに失礼のないようにしたいので、とりあえず敬語を使っておこうと。敬語を使うと無難なんですね。そうした「敬意のインフレーション」みたいなものが起きて、敬語がいっぱい使われるようになった。19世紀半ばに「〜ていただく」という形が生まれ、19世紀の終わり頃にはすでに「させていただく」が誕生しています。
その時点では、ちゃんと「させて」という許可と「もらう」という恩恵があるかたちで使われていたんですが、今はそうでなくなっているんですね。伝統的な敬語としては、尊敬語や謙譲語などで上下関係を表すものが正統派ですが、世の中がだんだんタテ社会じゃなくなってくると、ヨコの関係でのやりとりを表したくて、「やりもらい」の動詞で恩恵を表すことが好まれるようになりました。「くださる」とか「いただく」ってそれの敬語形ですね。旧来の敬語とは別のタイプの敬語のようなものとして使われるようになるわけです。そして今「させていただく」という、敬意がてんこ盛りのフレーズが盛んに使われるようになっています。
ーー研究とは、具体的にどのようなものだったのでしょうか。
椎名:ひとつは「させていただく」と、いろんな言葉の組み合わせを考えて、約700人にアンケートしたんです。みんながどの部分に引っかかるのか、どの例文に対する違和感が高いかを5段階で評価してもらうんです。
そして、例文を英語にしたときに「させていただく」の前の動詞部分に「you」が出てくるものを「必須性(がある)」とし、同様に「させて」に「あなた」に許可をもらうという意味があるものを「使役性(がある)」とする。「いただく」になにか恩恵の意味があったりするものは「恩恵性(がある)」です。「必須性」「使役性」「恩恵性」この3つの要素との関係を見たわけです。
ーーそこでは、どのようなことがわかったのですか?
椎名:調査の結果、みんながどこに違和感をおぼえたかというと、まず引っかかるのは必須性でした。「させていただく」の前にくっつく本動詞に「you」があるか、ないかというのが一番大事なんですね。「説明する」のように「あなた」が意味の中に含まれている言葉だと5段階評価で2.323の違和感。「感動する」のように「あなた」に関係ない動詞だと3.469と高い数値が出ました。これはかなり大きな違いです。
次にどの要素がくるかというと、使役性です。「私が『あなた』にさせてもらうこと」とみなされる例文では、違和感が小さいことがわかりました。じゃあ次は「ありがたい」と思う恩恵性が関係するのかなと思ったら、まったく関係しないこともわかりました。これは私にとっては驚きの結果でした。
次に違和感に影響するのは、年齢だったんです。20代までの若年層は「させていただく」への違和感が全般的に低いんです。例文にもよりますが、次に低いのは60代以上の高年層で。30代〜50代の中年層が一番違和感をおぼえていたんですね。なんでだろうって考えたら、これは現役で働いている世代なんですよね。現役世代が一番敬語に敏感というか、営業や接客のときに「この言葉はよい」とか「悪い」とか、そういうことに気をつけて生活しているんだと思います。