『美味しんぼ』海原雄山は単なる暴君ではない? 厳しさの裏にある優しさと正論
『美味しんぼ』の象徴的存在、海原雄山。理不尽な暴君のイメージを持つ人もいるだろう。だが、彼の厳しさの裏には、優しさと至極真っ当な論理が隠されている。
そこで今回は海原雄山が放った、厳しさに裏打ちされた正論について取り上げてみたい。
鮎のふるさと(8巻)
怪我のため入院していた京極万太郎のお見舞いに訪れた山岡士郎と栗田ゆう子。京極は「退院したら鮎の天ぷらを食べさせてほしい」とリクエストする。
快諾する山岡だったが、そこへ海原雄山が現れ、鉢合わせとなる。そしてこの話を聞くと、「天ぷらの揚げ方もわかっとらんうえに鮎のことも知りもせん男が、鮎の天ぷらか。恥の上塗りだ」と笑う。当然激怒する山岡。困惑した京極は、「2人にご馳走してもらい味を判定する」と提案した。
対決当日、山岡は状態の良かった保津川の鮎を天ぷらにして振る舞う。京極と谷村部長はその味を絶賛し、同席した唐山陶人は「雄山のほうを食べる前に勝負が決まった」とまで言い出す。雄山は、「はたしてそうでしょうか? 私のを食べていただこう」と不敵な笑みを浮かべる。
雄山の用意した鮎を食べた陶人は「甲乙つけがたい。引き分けかな」と話す。しかし京極は目に大量の涙を浮かべており、「なんちゅうもんを食わしてくれたんや」「旨い、旨い、これに比べたら山岡さんの鮎はカスや」と断言した。
驚く山岡に雄山は「京極さん、それは四万十川の鮎ですよ」とつぶやく。京極は高知県の出身で、幼少期にこの鮎を味に慣れ親しんでいたのだ。ショックを受ける山岡に「お前は以前京極さんにイワシの丸干しを出したことがあるはずだ。それなら一体どこの川の鮎が喜ばれるかわかりそうなもの。それを小賢しい鮎の知識で忘れてしまった」と叱責する。
続けて「お前はまたも大事なことを忘れてしまったのだ。慢心以外のなにものでもない」「料理は人の心を感動させて初めて芸術たりうる」「お前の今の心がけでは、どんな料理を作ったところで、材料自慢、腕自慢の低俗な見せびらかし料理に終わるだろう。そんなお前が究極の料理なんて滑稽だ」とバッサリ斬る。山岡はこの発言に、ぐうの音も出なくなってしまった。
言葉遣いは厳しいが、京極の好みを忘れた山岡の慢心をバッサリと斬った雄山の発言は、まさに正論。そしてそれは、息子への叱咤激励にも思えた。
結婚披露宴(47巻)
栗田ゆう子の尽力で山岡と栗田の結婚式は近城勇・二木まり子と合同となり、「究極対至高」の対決に。雄山は近城側として出席することになる。
雄山が「至高のメニューのなかの至高」と称して出したのが、ご飯・味噌汁・焼き魚・大根の煮物・豆腐といった、ありふれた惣菜料理。拍子抜けする参列者だが、食べてみるとそれは全て最高の素材を使ったもので、一様にその味に驚く。
そして雄山は「今日この惣菜料理を選んだのは、このみすぼらしさにある。このみすぼらしさこそ、私が二人(近城・二木)に贈りたいものなのだ」と説明する。続けて、この料理が貧乏のどん底で苦しみ、芸術家としても上手く行かなかった頃、妻が最良の素材を足でかき集め、作ってもらったものと同じなのだと明かす。
雄山は「高価な貴重なものの味を漁るのが美味の追求だと思っていたが、そうではなかったのだ。大事なのは感動だ。至高の口福による感動なのだ」とし、「私はこのみすぼらしさを贈りたいのだ。その中に真の豊かさを包んだみすぼらしさを」と説いた。
至高の料理は高額な材料ではなく、最高の素材を使った心の料理。この論理に共感した読者は、かなり多かったのではないだろうか。そして47巻で初めて明かされた雄山と妻の真実の関係性は感動的であった。