『今日から俺は!!』のルーツは少女マンガだった? 20数年前のヤンキーマンガが愛され続けるワケ
累計4000万部を突破した西森博之のマンガ『今日から俺は!!』を原作とするTVドラマが2018年に放送されて人気を博し、2020年夏に公開中の映画はコロナ禍にもかかわらず大ヒットしている。
原作が『週刊少年サンデー』で連載されていたのは1988年から97年まで。20数年前のマンガが今も愛される理由はどこにあるのだろうか。
『今日俺』がドラマを通じて「ファミリー」作品になりえたわけ
『今日俺』はヤンキーマンガとしては珍しく、『サンデー』に連載された。ヤンキーマンガがドラマ化されたことをきっかけに今やキッズにも愛され、親も観て/読んでいいものと認定している、というのも、これまた珍しい。『今日俺』はそもそも少年誌に連載されたヤンキーマンガのなかでは、かなりの女性ファンを獲得し、ドラマ化以降も女子に支持されている作品でもある。この間口の広さはどこに起因するのか?
『今日俺』作者の西森博之は、実は姉の影響で、青池保子や萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子、くらもちふさこなどの70年代~80年代の革新的な少女マンガを読んで育っている。
読むとわかるが、西森作品は少年マンガの中ではモノローグが多い。キャラクターたちが「まわりから本当はこう見られたい」という振る舞いと「でもとっさにそうじゃない行動をしてしまう」こととのズレに悩み、素直になれないことに悩む。これは少女マンガの影響だろう。
「ヤンキー」の別名であった「ツッパリ」(こちらは死語になったが)とは「本来の自分」より「盛る」(見栄を張る)ことを「ツッパっている」と形容していたものだ。イキった自分と本当の自分との差を面白おかしく描くことは、『ビー・バップ・ハイスクール』以来のヤンキーマンガの定番のお作法である。
ヤンキーマンガ的な「外から見た自分/本当の自分」の落差の描き方と、少女マンガ的な「素直じゃない振る舞い/オモテに出せない内面」の葛藤とが融合したのが『今日俺』だったのだと思う。
もっとも、少女マンガの影響を受けてヤンキーマンガを描いていたのは西森だけではない。たとえば『ろくでなしブルース』の森田まさのりは『くらもち本 くらもちふさこ公式アンソロジーコミック』に参加しているように、やはりくらもちリスペクトのマンガ家だ。
森田(66年生まれ)と西森(63年生まれ)はヤンキーマンガというか不良マンガを同時代に描き(『ろくでなしブルース』は1988年~97年連載、『今日俺』も88年~97年連載)、かつ二人とも自分がヤンキーだったわけではなく、その後の作品はヤンキーマンガから離れているという点でも共通している。80年代に青春を送った「非ヤンキー作家」が不良を描こうとしたとき、くらもちふさこの描くツンツンした男子が参照項になっていたという点は興味深い。
ただし、くらもち男子はむしろ性欲を隠さないし、女たらしなこともある。ところが、『今日俺』は80年代から90年代に描かれたヤンキーマンガの中ではおそらく少数派なことに「不特定多数の異性にモテたい」という要素が薄い。
『ビー・バップ』や『湘南純愛組』の主人公たちは性欲に完全に頭を支配されている回もある一方、『今日俺』の主人公である三橋や伊藤は、ふだんはおちゃらけていても、そこは硬派だ。マンガのなかで三橋が理子に「やらせて」と言う場面は一回だけあるが、セックスしたくて必死になることはない。
しかも『今日俺』で盛り上がる/ファンにウケがいいのは「女の子を助けに行く話」より、何のメリットもないのに「男が男を『友達だから』と言って助けに行く話」のほうだ。その打算のない男同士の友情関係が熱い。
また、三橋や伊藤が悪ぶって飲酒・喫煙・暴走その他の不法行為を働くことは基本的にない。
近年でもケータイ小説やゲームをはじめヤンキーものは一定の需要があるが、そこで求められているのは「非日常の象徴としてのヤンキー」でしかなく、最近のケータイ小説のヤンキーはほぼ非行をしない。そういうクリーン化したヤンキー像と比べても、『今日俺』の三橋・伊藤は全然古びた感じがしない(もちろん敵対する開久高校のヤンキーたちは悪いわけだが、物語展開上、必要な悪役という感じで、そのへんはあまり気にならない)。
また、天真爛漫に茶目ッ気たっぷりに三橋が破壊行為をしたりはするが、あれをゲラゲラ笑ったとしても、マネしたいと思う子どもはほとんどいないだろう。
こういったあたりが男だけでなく女子にも、そしてキッズや親にもウケがよい理由だろう。