大河ドラマ再開が待ちきれない! 今村翔吾『じんかん』で松永久秀を追いかけよう
戦国時代と現代は似ている。そう感じたのは、『麒麟がくる』と『じんかん』に共通する、閉塞した世の中を変えようとする“一厘”の人々の姿である。『麒麟がくる』における斎藤道三が、明智光秀に「これからを担う男」として織田信長の存在を示唆したように、『じんかん』においても三好元長が果たせなかった夢を、松永久秀が担い、やがて織田信長に託す。『じんかん』における“一厘”の人とは、『麒麟がくる』における、争いのない平らかな世を作れる者のみが連れてくることができる生き物“麒麟”を呼ぶことができる人に他ならない。
「人は本質的に変革を嫌う(p.341)」。「本当のところ、理想を追い求めようとする者など、この人間(じんかん)には一厘しかおらぬ。残りの九割九分九厘は、ただ変革を恐れて大きな流れに身をゆだねるだけ(p.377)」と久秀が語るように、人々は簡単に流される。
全ての民にとって「己を善と思い、悪を叩くことは最大の快楽(p.297)」なのだ。「民のための民による自治を」と邁進していた元長は、一向一揆で敵と見做され、皮肉にも民たちによって滅ぼされることになる。だがこれは、戦国時代に限った話ではない。現代にも繋がる。むしろ、SNSによる誹謗中傷で死者まで出てしまう現代そのものである。
時代の転換期でありながら、人々が生きづらく、先が見えないために閉塞した空気が漂っている戦国時代はまさしく現代のそれだ。だからこそコロナ禍を生きる我々は、大河ドラマ中断直前の第21話次回予告におけるテロップ「本当に麒麟はくるのか?」を見て、切実に麒麟を待とうと思わずにはいられなかったのだ。
では、一厘に過ぎないカリスマたちにしかできることはないのか。主君・織田信長による気まぐれの長話を恐れながら聞いている小姓・狩野又九郎という人物がいる。面白いことに、この松永久秀一代記は、織田信長を語り部として展開されるのだ。やがて邂逅した久秀は又九郎に投げかける。「夢に大きいも小さいもない。お主だけの夢を追えばいいのだ(p.505)」と。
これは人間(じんかん)の物語であり、人間たちの物語だ。それぞれの果たせなかった夢を懸命に繋いで次に繋げた人間たちの証の物語なのである。
■藤原奈緒
1992年生まれ。大分県在住。学生時代の寺山修司研究がきっかけで、休日はテレビドラマに映画、本に溺れ、ライター業に勤しむ。日中は書店員。「映画芸術」などに寄稿。
■書籍情報
『じんかん』
著者:今村翔吾
出版社:講談社
定価 : 本体1,900円+税
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000340910