『僕のヒーローアカデミア』デクとオールマイトは日米関係を照らし出すーー多角的な批評性を考察
週刊少年ジャンプで連載中の『僕のヒーローアカデミア』はとても批評的な作品だ。
人口の8割が何らかの特殊能力「個性」に目覚めた架空の世界を舞台に、なんの個性も持たない少年、緑谷出久(デク)が憧れのヒーローの頂点、オールマイトから力を譲渡され、ヒーローへの道を歩んでいく。デクはヒーローを養成する雄英学校へ入学し、多くの仲間たちと切磋琢磨し、社会を脅かすヴィランと戦ってゆく。
少年ジャンプの王道であるひたむきな少年の成長譚であり、現在のジャンプの看板作品だ。『NARUTO』終了後の代表的な「MANGA」として、海外でも大きな人気を誇っている。
本作は、アメリカンコミック(アメコミ)のスーパーヒーローものに強く影響されているとよく言われる。「アメリカの影響」は一つの漫画作品を超えて、戦後日本の重要な要素の一つであるが、本作はアメコミの影響、それもスーパーヒーローをモチーフにしているためか、現実の日米の関係、そしてアメリカ文化や日本文化に対して鋭い批評的視座を、無為に得ている稀有な作品だ。
アメリカの神話としてのアメコミ
そもそも、アメコミとはどういったものだろうか。アメコミと一口に言っても多彩なジャンルが実はあるが、ここでは『ヒロアカ』が影響を受けている「スーパーヒーロー」ものに焦点を当てる。スーパーヒーローものこそがアメコミが生んだ固有のジャンルであり、マーベルやDCコミックス作品の映像化作品が続々大ヒットを飛ばしていることから、現代アメリカを代表する文化であると言えるからだ。
アメリカにとって、スーパーヒーローという題材は一種特権的な地位を占めており、単なる娯楽以上の存在感を持っている。横山宏介氏は、アメコミにおけるスーパーヒーローとは神話の模造品であると言う(https://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/yokoyama/386/)。
アメリカという国は歴史が浅い。歴史の浅さゆえに伝説や神話を持たないアメリカは文化的なロールモデルに乏しい国だ。元々、ヨーロッパから逃れたきた人々が、血塗られながら築いた国であるがゆえに、素直に欧州の神話をロールモデルとするのもはばかられるのかもしれない。だからこそ、模造品でも自分たちの神話を作り出すべく、スーパーヒーローは必要とされるのではないか。
政治学者のトラヴィス・スミスは、自著『アメコミヒーローの倫理学 10人のスーパーヒーローによる世界を救う10の方法』で「スーパーヒーローは、リベラル民主主義の文化におけるアリストテレスの理想のマニフェストである(P30)」と記しており、現代人が模倣すべき規範となりうるのだと書いている。この本におけるスミス氏の主張は、神話の模造であるという横山氏の主張を裏付ける。神話が、人々の生きる指針や世界の構造を物語として示したものだとすれば、アメリカ人にとってスーパーヒーローはまさにそれに該当するものなのだ。
今日では数多くのスーパーヒーローが量産され、多くの消費を喚起している。単なるロールモデルを超えて、ハリウッド経済の屋台骨であり、SNS時代の共感を消費する社会に巻き込まれながら、その影響力を拡大している。
SNS社会は人々に心の近さを求める。あらゆる有名人もSNSで発言し、ファンと近い距離を作り出すのと同様に、スーパーヒーローもこの消費社会を生き抜くために近さを要求されている。「親愛なる隣人」スパイダーマンのように、我々の身近な存在だと思えるタイプのヒーローが人気を集める傾向になってきていることを、スミス氏も同書で指摘している。様々な人種のヒーローを生み出そうとしているのも、それぞれの人種にとっての身近な存在の方が共感を得やすいからだ。スーパーマンのような圧倒的存在よりも、自分もヒーローになれるかもしれないと思わせてくれる存在の方がより良いロールモデルになる。「だれの心の中にもヒーローがいる」とスパイダーマンこと、ピーター・パーカーの育ての親、メイ叔母さんは言う。そして、そんなSNS社会の過剰承認欲求とヒーロー願望を結びつけたパロディ作品として『キック・アス』のような作品も存在する。