「社会問題が表出する最先端の街」ノンフィクション作家・織田忍が「山谷」に住むようになったワケ

■ノンフィクション『山谷をめぐる旅』の制作経緯
大阪・釜ヶ崎、横浜・寿町と並んで日本三大寄せ場と言われる東京・山谷――。その山谷に訪問看護師として従事しながら、街を活写したノンフィクション『山谷をめぐる旅』(新評論)を上梓した織田忍さん。織田さんが関わるようになったときには、山谷はすでに齢傾く街の姿をみせていた。それはまさしく日本そのものの姿でもあった。
山谷が肉体労働の供給場として、また労働運動の中心地として暴動に明け暮れた1960~70年代は、日本も高度経済成長の夢を見ている途中で、まだ若かった。山谷のあり方を追うことは、日本のあり方を追うことと同義である。織田さんはどのようなきっかけで山谷に入り込むことになったのだろうか。(神田桂一)
【写真】日本三大寄せ場・山谷ギャラリー/今と昔の比較(13枚)
「1980年代のアフガニスタンを写したことで知られる報道写真家の南條直子さんの取材を進める中で、南條さんが山谷に住んでいたことがわかって、住所を教えていただいてアパートを見に行ったんです。それが初めての山谷との関わりです。それが15、6年前になるかな。釜ヶ崎でボランティアをしていた友人がいたのでドヤ街については漠然としたイメージはあったのですが、山谷については名前を知っていたくらいで、自分との関わりはほとんどない知らない土地でした」
山谷の歴史は江戸時代に遡る。日光街道の最初の宿場町である千住宿の棒鼻にあたるのが山谷付近である。棒鼻とは宿場町の端で粗末な木賃宿が並ぶところ。明確な起源ではないが、その後の山谷につながる宿命めいたものを感じる。本格的な山谷エリアの形成は1870~80年代の地租改正と解放令によってだ。職能集団であった被差別部落民が職業を剥奪され、新平民とされたことにより貧困化し、下層社会が急速に形成されていくことになった。そこに、現在も南千住駅の横に現存する貨物駅・隅田川駅に石炭特需で仕事が集まり、隣接する山谷の木賃宿に生活困窮者が労働を求めて集まるようになったのだ。
「南條さんの岡山にあるご実家にうかがったとき、彼女が写した山谷の写真を発見したんです。もう長く、誰も開くことのなかったダンボールの中のモノクロ作品をみて、これは貴重な記録だと思いました。それから一気に取材に入り込んでいきました。当時、看護学校に通っており、南條さんの山谷作品をまとめた写真集『山谷への回廊』を出版し、看護でも寄せ場との関わりがあったので、少しはお世話になった人たちの役に立てるかもしれないと思い、医療従事者として山谷で働くことにしたんです」
■街自体が「家」になっている
南條が撮影した山谷をまとめた本は話題を呼び、プレミア価格がついているほどだ。そのうちに山谷で一冊書いてもいいかなと考えるようになったが、山谷に飛び込んだ織田さんは、本を書き上げるのに8年もの歳月を要した。それは一筋縄ではいかない「街」と「人」との関係を築くのにかかった時間でもある。本を書き上げた今、実際に山谷に深く入ってみて、山谷についてどう思うだろうか。
「山谷って、街自体が家そのものだったんです。だからドヤの寝床は2畳くらいだけど外に出たら角打ち、コインランドリー、コインロッカーといった家機能があちこちに備わっていた。それこそ路上がリビングであり、賭場も開けば酒盛りやゴロ寝もできる。寄せ場の解体って、要するに、街にあった家機能が失われたことだと思っているんです
また、日本のムラ社会とは対局にあってよそ者が集まってくる街でした。今で言う多様性。いろんなところから人が集まってくるから垣根や塀がないんです。そして、現状は、やっぱり単身・高齢の街ではある。だから世間の10年ぐらいを先取りしている街だと思います。今や労働の街ではなく、福祉の街になっていて、どうやってそういう人たちを介護していくのか、誰がどう看取るのか、お墓をどうするのか、そういう問題に対して、山谷は一歩早く直面しました。
それはこれから訪れる日本の未来の姿だと思うんです。ここ10年くらいで医療福祉業界でしきりに『地域包括ケアシステム』という言葉が使われるようになったんですけど、山谷は現状認識が一歩早かったので、日本でも有数の対策が構築された地域になっている。認知症の徘徊とか、依存症とか結核、梅毒、トコジラミとか、山谷はすでに経験済みなんです。世の中の話題になる前に、社会問題が表出する最先端の街である。そういう意味で、社会の縮図と言えるかもしれないですね」
インターネットの登場で、労働市場が場所に支配されなくなり、寄せ場は解体された。高齢化社会も進む中、山谷も変化を迫られている。このまま過去の街になるのか。
「寄せ場はふたつ機能があると思っていて、労働的な機能とシェルター的な機能です。今は労働がなくなって、シェルター的な機能が残った」
織田さんは、著書の最後で、山谷は「生き直しができる街」と言う。「アジール」「サナトリウム」とも。この言葉には、今の日本が抱えている問題を解決するヒントがあるにちがいない。