村上春樹は“父親の存在”とどう向き合ってきたのか? 新刊エッセイ『猫を棄てる』を読んで

村上春樹『猫を棄てる』を読んで

 00年代に入ると、父親の存在、そして、戦争や暴力に関する記述がさらに強く表れるようになる。『海辺のカフカ』(2002年)では、エディプス王の物語を下敷きに、父親からの“母と交わり父を殺し、姉とも交わる”という呪いによってストーリーが駆動。迷い込んだ森の奥で、旧帝国陸軍の軍人と出会うというエピソードをはじめ、第2次世界大戦の影も色濃い。

 また、父親を亡くした後で発表された『1Q84』(2009年)では、主人公の天吾の父親が物語の鍵を握る。満蒙開拓団に参加し、戦後はNHKの集金人としてマジメに働いた父親の造形もまた、村上の父親の人生と重なるところがあるはずだ。

 村上春樹の小説における父親の存在、それに伴う戦争や暴力の記憶は、どのようなプロセスを経て、前景化してきたのか。『猫を棄てる 父親について語るとき』は、そのことを解き明かす大きなヒントになるはずだ。村上が長い逡巡の後、父親について書くことを決意したのは、今から5年ほど前のことだという。日中戦争の時期に徴兵され、中国に出征した父親の経歴を詳細に調べ、そこで浮かび上がってきた事実と向き合い(そのなかには村上の記憶違いもあったという)、混沌とした思いを丁寧に紐解き、静かに受け止めていく過程を綴った本作はそのまま、村上春樹という小説家の変遷ともつながっている。特に20年以上も会っていなかった父親と、彼が亡くなる直前に再会し、「ぎこちない会話を交わし、和解のようなことをおこなった」という場面には、強く心を揺さぶられてしまった。

 あとがきにある、「僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間ーーごく当たり前の名もなき市民だーーの生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ」という文章も印象的だった。村上の父親は戦争の体験で心を深く傷つけられ、一生に渡って、その傷と向き合わざるを得なかった。その事実は家族や息子にも大きな影響を与え、その結果として村上と父親は疎遠となり、小説の世界にも色濃い影を落とすことになったのだ。

 そして本作は決して、村上の個人的なことだけに収まらない。第二次世界大戦が人々の“生き方や精神”に対する影響は、その下の世代にも強く及んでいる。歪んだ家族観、個よりも世間や社会を重視する精神性、どう考えても健全とは言えない現在の政治の在り方に至るまで、“戦争の傷”は形を変えながら我々にダメージを与え続けている。それをどう断ち切るかは、今を生きるすべての人間に課せられた課題だろう。

■森朋之
音楽ライター。J-POPを中心に幅広いジャンルでインタビュー、執筆を行っている。主な寄稿先に『Real Sound』『音楽ナタリー』『オリコン』『Mikiki』など。

■書籍情報
『猫を棄てる 父親について語るとき』
村上春樹
発売日:4月23日
価格:本体1,200円+税
出版社:文藝春秋

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