葛西純自伝連載『狂猿』第9回 大日本プロレス退団と“新天地”ZERO-ONE加入の真実

葛西純自伝連載『狂猿』第9回

デスマッチファイター葛西純自伝『狂猿』

「ZERO-ONEが欲しがっている」


 欠場して1カ月ぐらい経った時に、俺に病院に行けって言ってくれたサムライTVの人から「話がある」と呼び出された。それで会いに行ったら「葛西くんのことを、ZERO-ONEが欲しがってる」ということを教えてくれた。「自分はあと1年ぐらい試合ができないし、いま所属してもメリットが無いですよ」と返したら、「ZERO-ONE側はそれでもいいと言っている。それに欠場中は収入も無いだろうから、葛西くんがデザインしたTシャツとかをZERO-ONEの大会で売って、その利益分はぜんぶ葛西くんが持っていっていいっていう、そういう話までしてるから、団体側と一度会ってみないか」……。

 欠場中で、退団もして、先のことが真っ白だった俺っちからしてみたら、もう願ってもない話だった。ZERO-ONEの事務所を訪ねて、専務取締役だった中村祥之さんや、橋本真也さん、他の選手の方々にも会って話をした。中村さんは、「葛西くんには外人側に付いてもらって、先頭切って入場してきて日本人選手を挑発するような、スポークスマンみたいなことをやってもらったら面白いんじゃないかな」というプランを提案してきた。

 当時のZERO-ONEは、外人選手の充実ぶりがすごかった。スティーブ・コリノ、ザ・プレデター、トム・ハワード……。そういう外国人たちをまとめる、ズルそうなプレーイング・マネージャー。俺っちはWWEとかアメリカンプロレスが大好きだったから、その役割はすぐにイメージできた。

 それに、とにかくプロレスがやれて、プロレスでのし上がって、プロレスで潤って、ちゃんと家族を養えるようなところであればどこでもよくて、それが実現できそうだと思ったから、俺っちはZERO-ONEの世話になることに決めた。

 それから、ZERO-ONEの後楽園大会があるたびに会場に行って、Tシャツとかタオルとか、橋本さんの福笑いを作って売ったりして、それを欠場中の収入にする生活が続いた。リハビリや体作りも続けて、浜松町の道場の合同練習にも顔を出すようになった。俺っちの復帰戦であり、フリーとしての初試合は2003年1月5日に決まった。でも、その興行は「ZERO-ONE USA」という別ブランドで、出場選手はぜんぶ外国人選手というコンセプトだった。それでひねり出したのが、ヒラデルヒア出身の「サル・ザ・マン」というキャラクターだ。

 『格闘技通信』にイラスト送るときのペンネームとして考えた名前が、まさかZERO-ONEでの復帰戦のリングネームとして使われることになるとは思わなかった。


■葛西純(かさい じゅん)
プロレスリングFREEDOMS所属。1974年9月9日生まれ。血液型=AB型、身長=173.5cm、体重=91.5kg。1998年8月23日、大阪・鶴見緑地花博公園広場、vs谷口剛司でデビュー。得意技はパールハーバースプラッシュ、垂直落下式リバースタイガードライバー、スティミュレイション。twitter
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