Web発の注目漫画『マイ・ブロークン・マリコ』が突きつける、生々しい「生」と「死」の明暗対比

『マイ・ブロークン・マリコ』の魅力に迫る

物語を突き動かすキアロスクーロ

 平庫ワカの『マイ・ブロークン・マリコ』が話題になっている。口コミで日を追うごとにその評価を高めていった本作は、「COMIC BRIDGE online」でのWeb連載が更新されるたびにトレンド入りし、先ごろ発売された単行本(全1巻)も即重版が決定したらしい。快挙だ。とはいえ、失礼ながら本作は大部数発行の老舗雑誌に連載されたわけでもなければ、これまた失礼ながら、人気の売れっ子漫画家が描いた待望の新作、というわけでもない。それでも、つまり、評価の定まらない未知の新人の作品でも内容さえよければ売れる、というのは快挙であると同時に、エンターテインメントの世界の正しいあり方(送り手にとっても受け手にとっても)を指し示しているともいえよう。似たようなケースとして、たとえば映画の世界での『カメラを止めるな!』の大ヒットが記憶に新しいところだが、漫画の世界もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思った。

※以下、ネタバレ注意

 さて、この『マイ・ブロークン・マリコ』というタイトルだが、作中でのキャラクターたちのノリで訳すなら、「あたしのぶっ壊れたマリコ」といったところだろうか。そう。このタイトルからもわかるように、主人公は「あたし」であり、「マリコ」とは、物語のカギを握る重要なサブキャラクターのことだ。

 「あたし」の名は、シイノトモヨ。少々やさぐれたOLである彼女は、ある日、定食屋(?)でラーメンを食べていた際、突然流れてきたテレビのニュースで親友のイカガワマリコの自殺を知る。意図しているのかいないのかはわからないが、こうして著者はいきなり冒頭から「食事」と「訃報」という生々しい「生」と「死」のキアロスクーロ(明暗対比)を読者に突きつけてくる。そしてその明暗対比は、「肉体(=トモヨ)」と「骨(=マリコ)」というふうに形を変えて、物語を最後まで突き動かしていく。

 マリコと「先週遊んだばっか」だったというトモヨは激しく動揺するが、かといって、心の底から彼女の自殺を信じられないというわけでもない。なぜならもともとマリコは自分でも「わたし、ぶっ壊れてるの」というような女性であったから。しかしもちろん彼女が望んで壊れたわけではないだろう。マリコに暴力をふるいつづけた父が、娘を見捨てて家を出ていった母が、父と同じような乱暴な恋人が、こぞって彼女をぶっ壊していったのだ。でも(マリコは気づいていないが)本当は彼女が壊れているのではない。理不尽な暴力に満ちたこの世界のほうが壊れているのだ。

 それでもトモヨは、10代の頃からこれまでできる限り、そうした理不尽な暴力と(時にはフライパンを武器にして)戦い、彼女なりにマリコを守ってきた。だけどマリコはいくら守ってやっても、もとの暴力に満ちた世界に自ら吸い寄せられるように戻っていくのだった。そんなマリコはあるときトモヨにこんなことをいう。「シイちゃん(=トモヨのこと)がいるってコトしか、わたしに実感できるコトってないの」「わたし、シイちゃんから生まれたかった」

 自分に何かもっとできることはなかったのか。なぜマリコの自殺を止めることができなかったのか。なぜ彼女の異変に気づいてやれなかったのか。その問いと後悔が最後までトモヨを悩ませる。しかし先ほど述べたように、本作における「肉体」の象徴である彼女は、考えるよりも前に動き、親友の遺骨を暴力的な父親から奪い取り、マリコがむかし行きたいといっていた海を目指して「ふたり」で最初で最後の旅に出る。

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