円堂都司昭のミステリー小説キュレーション
『なめらかな世界と、その敵』『ベーシックインカム』……円堂都司昭がSF&ミステリー注目作を読む
それに対し、井上真偽の新作『ベーシックインカム』(集英社)は、科学技術の発達によって人間が新たな可能性を得た未来が舞台のSFミステリー。同書には、人工知能、遺伝子操作、仮想現実、人間強化(エンハンスメント。技術によって認識・肉体的能力を高めること)を題材にした短篇が収録されている。技術の高度化に人間の心理が追いつくとは限らない。科学の発達がストレートに幸せに結びつくわけではないと収録作は語る。
また、本の最後におかれた表題作は、「ベーシックインカム」(全国民が最低限の生活が可能なように現金を支給する政策)が題材だ。最低限の幸せを得るのに必要なのは、科学の発達以前にまずお金だと指摘するような構成ともいえる。本書でこの所得保障政策を読むと、個人のお金を操作し強化することで経済の意味を変え、別の世界の可能性を見出そうとするSF的発想に思えてくる。
最後にSF界で現在話題の短篇集をもう1冊。伴名練『なめらかな世界と、その敵』(早川書房)には、超高度な脳科学や人工知能、他者の働きかけで変わる意識、低速化災害などをモチーフにした作品が収められている。とても異様な状況を扱っていながら、読む人が想像しやすい文体になっているのが素晴らしい。なかでも表題作は、強烈な印象を残す。並行する複数の世界を自由に行き来することが普通になった社会が舞台の青春ストーリー。いつでも別の「現実」の「私」に乗り換えられるのだから、いくらでも不快を排除して幸せになれる。でも、そこで乗り換え不能の障害を負ってしまったら……。真実が1つとは信じられず、多くの可能性に取り囲まれて戸惑う私たちに響く作品だ。
■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『エンタメ小説進化論』(講談社)、『ディズニーの隣の風景』(原書房)、『ソーシャル化する音楽』(青土社)など。