ASA-CHANG&巡礼、Mrs. GREEN APPLE……バイオリニストとして幅広く活躍 須原杏、ジャンル横断的な素養がもたらす斬新さ

須原杏、ジャンル横断的な素養

【連載:個として輝くサポートミュージシャン】須原杏

 J-POPのど真ん中からアバンギャルドな方面まで、日本の音楽シーンの第一線で活躍を続けるバイオリニスト・須原杏。音楽大学出身でクラシックに軸足を置きつつ、アンビエント、エレクトロ、ミニマル、テクノなどにも精通し、若くしてASA-CHANG&巡礼に加入して以降、様々なバンドで活動してきたが、ジャンルのボーダーが消え、アカデミックな背景を持つ同世代の音楽家がポップスからオルタナティブまで幅広く活躍するようになった今こそ、彼女の本領が発揮されていると言えるはず。実際に近年レコーディングやライブのサポートで参加したアーティストの数は膨大で、その多彩な顔触れは特筆すべきものがあり、現代のキーマンの一人であることは間違いない。これまでのキャリアを振り返ってもらったこのインタビューが、彼女について知る一助となれば。(金子厚武)

クラシックやミニマルを経て、今に至るターニングポイント

ーーバイオリンは6歳から始められたそうですが、どんな家庭環境だったんですか?

須原杏(以下、須原):両親はプロの音楽家ではないんですけど、祖父や祖母も含めてみんな音楽が好きで。「家族全員クラシックが好き」っていうのは、今思うと結構珍しかったのかもしれないですね。ただ「プロにさせたい」みたいな感じで始めたわけじゃなくて、たまたま近所でバイオリン教室が始まったのが私が6歳のときだったんです。家族によると、私が「バイオリンをやりたい」って言ったらしいんですけど、覚えてないです(笑)。その教室では本格的にやってる人もいましたが、当時の私はレッスン前日に慌ててちょっと練習するみたいな感じでした。

ーーでも高校は都立芸術高校に進まれていて、その頃には真剣にバイオリニストを目指すようになっていたわけですか?

須原:小学校まで横浜の方に住んでて、中学のときに引っ越して、渋谷の学校に通ってたんです。田舎から出てきた私からすると周りがみんなシティガールみたいな感じで、カルチャーもよく知ってるし、音楽もいろいろ聴いてて。ちょうど『ロッキング・オン』の世代というか、くるり、NUMBER GIRL、スーパーカー、ゆらゆら帝国とか、それこそGO!GO!7188もそうだし(現在、元GO!GO!7188のユウとはYAYYAYでともに活動中)、そのあたりもすごく盛り上がっていて、初めてタワレコにも行ったりして。そういう中で、中3のときにバイオリンの先生から「音大受けるんだったらこのままじゃダメだから、ちゃんと目指すのかを決めなさい」って言われて、やらなきゃいけない気がしたんですよね。たぶん、バイオリンじゃなくても良くて、頑張ることをしなきゃいけないみたいな気持ちで、「よし、じゃあやろう」って。ただ学校ではバイオリンをやってるのが恥ずかしくて、当時テニス部だったんですけど、ラケットバッグにバイオリンを一緒に入れて登校してました(笑)。

ーー確かにちょうど入りそうですね(笑)。

須原:その中学は附属で大学まで行けるところだったんですけど、途中で高校受験をして、都立芸術高校(現:東京都立総合芸術高等学校)に入学しました。そのときに相当練習したので、そこが別れ道だったのかなっていう感じですかね。ただ高校に入るまではクラシックをほとんど知らないというか、理論も知識もまるでなくて、でも他の子たちはみんなやる気のある子ばっかりで、会話の中心も完全にクラシック。それでどうしたかというと、目黒区の図書館が学校の近くにあったので、高1から高3まで毎週クラシックのCDを30枚ぐらい借りて聴いて、その3年間はクラシックに満ち溢れたというか(笑)、相当マニアックな曲まで「もう大体聴いたな」ってなったのが高校生活でした。

ーーそこでクラシックの理論や歴史も知って、よりハマっていったと。

須原:どハマりしました。あと高校に入ってアンサンブルというものを初めてやるようになって、ジュニアオーケストラに入ったのもその時期なんですけど、もう面白すぎて、ずっとそればっかり考えてるような毎日でした。受験のためにソロもやるけど、やってられるならずっとアンサンブルしてたいなっていう気持ちが芽生えたのもその頃ですね。

ーーちなみにバイオグラフィには「クラシック音楽やアンサンブルの楽しさに目覚め、勉強と練習に明け暮れながら、海外のネットラジオでインディーズバンドを漁る」(※1)とありましたが、どんなアーティストを聴いてましたか?

須原:そのときにどハマりした1つに、ベルギーを拠点に活動するThe Black Light Orchestraっていう、バリトンサックスとフルートが入った面白い編成のバンドがいて。そのバンドが来日した日のライブに日比谷カタンさんと巻上公一さんも出てて、一緒に行ってくれる友達が周りにいないから(笑)、妹を誘って行きました。そこで巻上さんとか日比谷さんを観たのは今でも記憶に残ってるというか、こういう世界線もあるんだなっていうのを強く感じましたね。

ーー東京音楽大学に進まれて、もちろんクラシックを中心に勉強や活動をしてたとは思うんですけど、他にはどんな音楽に触れていましたか?

須原:大学に入ってからは……Son Lux、Clark、Four Tet、日本だと(菊地成孔と)ペペ・トルメント・アスカラールとかworld’s end girlfriendを知ったり、民族音楽からやっと(スティーヴ・)ライヒを知って、そこからミニマルとかテクノを知り、でもやっぱり一緒に行く人がいないから(笑)、1人でWOMBとかSpace Lab Yellowに行くようになって、みんなと目指すところが変わってきたかなっていう片鱗が出てきて。ただやっぱりアンサンブルはすごく好きで、オーケストラの沼からは出られず、毎日スコアを見ながら寝る前に聴くという日課がもう1個の軸として強くありました。なので、オケマン(オーケストラ楽団員)もいいなと思いながら、卒業してしばらくはエキストラでオケにも行きつつ、どうしようかなって感じでした。

ーーそういう中で現代音楽とか実験音楽の方により興味が向いたわけですよね。

須原:そうですね。現代音楽の哲学的なところに惹かれて模索し始めた時期でもあるかもしれないです。足立智美さんの、ジョン・ケージとかフルクサス系のゼミに参加して、大学とは全く違う観点で「音楽とは何だろう?」って考える時期が数年あって。結局忙しくなったり違うことをやるようになって、だんだんフェードアウトしていくんですけど、その時期の経験と体験は今の自分にすごく残ってますね。

ーー人力でミニマルをやる演奏団体のOFF CLASSICAを旗揚げしたのもその頃ですか?

須原:はい。当時はライヒの作品を弦でやってる人があまりいなくて、「Different Trains」を1回自分が弾いてみたいという単純な動機で、無理やりみんなを誘ってやったりして。そのちょっと前ぐらいにもミニマルばっかりやるバンドを組んでたんですけど、やっぱりミニマルのバンドってめちゃくちゃ大変で(笑)。聴いていると気持ちいいんですけど、演奏側はフィジカル的にも結構ギリギリの音楽っていうか……そういうのをやってたらメンバーが血尿になっちゃったりとかして、そのバンドは頓挫しちゃって。でも同時期にOFF CLASSICAをやったら結構お客さんが聴きに来てくれて、自分の好きなことが実った体験として、楽しかったです。

ーーOFF CLASSICAっていう名前もそうですけど、やっぱり既存のクラシックの在り方からちょっと外れた、何か面白いことをやれないか、みたいな視点は常にあったんでしょうね。

須原:そうですね。ロンドンにnonclassicalっていう、現代音楽からエレクトロまでをDJと一緒にやったりするチームがあって、そういうのを海外に偵察に行ってた時期もありました。緊張感がある演奏をやったりするんですけど、終わったら若者も、お爺さんもお婆さんも、みんなクラブミュージックで楽しそうにしてる、そういう垣根のない感じにずっと憧れがあったんです。バイオリンってどうしても、「お嬢様で、クラシックやってこられたんですね」みたいなレッテルを貼られがちで(笑)。そういう想いもあって自分のやりたいことがだんだん見えてきた時期にASA-CHANG&巡礼にも入ってるんですよね。

ーーやはりASA-CHANG&巡礼への加入が、現在に至る大きなターニングポイントだと言えますか?

須原:そうですね。ASA-CHANGがバンドを再始動するタイミングで、Open Reel Ensembleが紹介してくれて。当時はオケのエキストラに行って、巡礼をやって、まだバイトもしてたから結婚式で弾いたりもして……っていう感じで、同じバイオリンでも結構めちゃくちゃな毎日を送ってました(笑)。同じ頃に、スタジオミュージシャンと繋がりができて、いろいろ呼んでもらえるようになって、ずっと止まってた私の中のポップスへの興味がまた動き出す、みたいな。スタジオにはスタジオの作法があって、バイオリンの弾き方も全然違ったので、だいぶ勉強になりました。それが20代前半ぐらいですね。

ーー他にもターニングポイントになるような出会いはありましたか?

須原:プロデューサーの河野圭さんにGen Peridots Quartetに誘ってもらったことですね。河野さんはJ-POPにいろいろな要素を入れながら、常に新しくて面白いことをやるっていう思考の方で、一緒にレコーディングをさせてもらうようになって、急にメジャーのすごい人たちと繋がれたのは、活動が広がり始めた大きなきっかけだと思います。

ーー宇多田ヒカルさんだったり、絢香さんだったり。

須原:そういう方と一緒にツアーを回ったりしつつ、Gen Peridots Quartetでは新しいチャレンジをいろいろやらせてもらって。エフェクターやシンセを使い始めたのもその頃でした。興味はありつつ表舞台で使う機会があまりなかったけど、そのバンドはチェロとバイオリンが1人ずつだったから、いろいろ自由が利いたので、アレンジもそこでほぼ初めてやらせてもらったりして、だいぶ視野が広がったと思います。

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