ユーマ代表 弘石雅和×ナイツ 塙宣之が語り合う“YMO愛” テクノ屏風からヤホー漫才まで、受け継がれるクリエイティビティ
国内外の音楽とアートの融合(United Music and Art)をコンセプトに掲げる新しい形のレコード会社・ユーマ株式会社が、創立20周年プロジェクトとしてNFT証明書付きのアートピースシリーズ「TechnoByobu〈テクノ屏風〉」の販売をスタートさせた。シリーズ第一弾は「Electronic Fan Girl」。Yellow Magic Orchestra(以下、YMO)の世界デビュー時のワールドワイド版1stアルバム『Yellow Magic Orchestra』(1979年/日本リリースは前年)のジャケットのために、ドイツ出身で現在はアメリカ・ロサンゼルスを拠点に活動するのイラストレーター、ルー・ビーチが作成したアートワークをモチーフにした作品だ。
そんなテクノ屏風「Electronic Fan Girl」の販売に際し、企画・開発したユーマ株式会社の代表・弘石雅和と、YMOファンとして知られる漫才コンビ・ナイツの塙宣之の対談をセッティング。YMOの魅力について存分に語り合ってもらった。(森朋之)
「“伝統工芸”と“テクノ”の要素を組み合わせてみたい」(弘石)
――テクノ屏風「Electronic Fan Girl」をご覧になった感想を聞かせていただけますか?
塙宣之(以下、塙):すごいですね。欲しいです、これ。YMOをよく知らない人にはわけがわからないでしょうけど(笑)、好きな人にはすごく価値があります。YMOの音楽を初めて聴いたときと同じようにビビッときました。
弘石雅和(以下、弘石):嬉しいです。ありがとうございます。
塙:カッコよすぎますね。この発想はどこから出てきたんですか?
弘石:僕は(YMOが所属していた)アルファレコードやソニーミュージックでテクノ系のアーティストに関わった後、現在のユーマを設立しました。2021年が20周年だったので、親交のあるアーティストを集めてイベントをやろうと思っていたんですが、コロナ禍で中止せざるを得なかった。代わりに何か次世代に遺す作品を作りたいと考えていた時期に、今のオフィスに移転したのですが、広い空間のなかに茶室があったので、「ここにシンボリックなアートを置きたい」と思っていたんです。そしたら同じタイミングで屏風のアートディレクターの方と知り合って。歴清社という118年も続いている老舗の箔押し紙メーカーさんの方で、「一緒に屏風を作りましょう」となったのが最初のきっかけですね。
塙:屏風を作る会社があるってことに、まず興味がありますね。寄席や演芸場には屏風がつき物なんですが、地方の市民会館などに行っても置いてないので、ちょっと寂しいんですよね。作ろうかな(笑)。
弘石:ぜひ! 「テクノ屏風」では“伝統工芸”と“テクノ”の要素を組み合わせてみたいと思って、そのときに浮かんだのが、YMOの1stアルバムのジャケットだったんです。
塙:なるほど、ピッタリですもんね。芸者のイメージもあるし。
弘石:そうなんですよ。当初は会社のためだけに1隻作ったんですけど……実は高橋幸宏さんも1年ほど、この場所に事務所を置いていた時期があって。幸宏さんに「テクノ屏風」の話をしたら、「面白い。商品にして売ればいいんじゃない?」と言ってくださったんです。その後、アートワークを手がけたルー・ビーチさんに連絡を取ってみたところ、「私の作品が屏風になるなんて、素晴らしいアイデアだ。何でも協力する」とお返事をいただいて。ただ、残念ながら完成品を幸宏さんにお見せすることが叶わなかったんです。今年3月3日に日本橋の水戯庵でお披露目イベント(『〜テクノ屏風開封の儀〜 TechnoByobu joins TECHNOH LAB.』)をやって、その後に直接、お届けしようと考えていたので。
塙:そうでしたか。
「歌詞がほとんどないYMOは自分に合っていた」(塙)
――では、塙さんがYMOを知ったきっかけは?
塙:僕は1978年生まれなので、リアルタイムでは知らない世代なんですよ。今となっては何がきっかけか定かじゃないんですが(笑)、中学生の頃に聴いていた『電気グルーヴのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)は大きかったと思いますね。電気グルーヴのお二人がテクノやYMOの話をしていて、興味を持ったので。ただ、インターネットもサブスクもない時代だから、ファミレスでバイトして、お金を貯めて1枚ずつCDを買うしかなかったんですよ。
高1のときに東京ドームでライブがあったんですが(1993年6月、『TECHNODON』リリース直後に行われた通称“再生ライブ”)、僕は佐賀に住んでいたから行けず。『TECHNODON』のボックスセットを買ったんですけど、それを兄(はなわ)に取られて、すごい喧嘩したのを覚えています(笑)。当時は毎日YMOを聴いてましたね。とにかく音が気持ちいいんですよ。ファミコンも好きだったんですけど、ピコピコしたゲーム音楽と同じような気持ちよさがあったんじゃないかな。
弘石:細野(晴臣)さんもゲーム好きでしたからね。アルファレコードのビル内にYMOがレコーディングしていたスタジオがあったんですが、ゲームセンターにある筐体がロビーにありましたから。
塙:そうなんですね! YMOは当時の自分にとって、とにかくカッコよかったんです。小学生、中学生の頃はCHAGE and ASKAやB'zが流行ってたんですけど、僕にはハマらなくて。子どもだったから歌詞の意味もよくわからなかったんだけど、「〇〇のことが好きだ」みたいなことを熱く歌ってる曲を聴くと「いや、普段そんなこと言わないでしょ」って思ってしまったんですよね(笑)。ちょっとひねくれてたのかもしれないけど、「本当の気持ちなんか伝わらなくてもいいよ」みたいに思っていたので、むしろ歌詞がほとんどないYMOのほうが自分には合ってたんじゃないかなと。
弘石:なるほど。YMOの1stアルバムは1978年に出たんですけど、そのとき僕は小6だったんです。今でもよく覚えているんですが、体育の創作ダンスの授業で、先生がこのレコードをかけてくれて。たぶん「Firecracker」か「東風」だったと思うんですが、「なんだこれ!」ってすごい衝撃を受けたんですよね。
塙:小学校の先生がYMOのファンだったんですね。
弘石:そうなんです。レコードのジャケットも見せてもらって、またビックリして。日本人か外国人かもわからないし、もちろんシンセサイザーも知らなかったんですけど、どんどんハマっていきました。中学校に入ったころは横浜銀蝿が流行ってて、周りにはヤンキーもすごく多かったんですよ。剃り込みかテクノカットか、つまり、眉毛を剃るかモミアゲを剃るかの二択でした(笑)。
塙:(笑)。でも、僕も同じような感じでしたね。佐賀もヤンキーばっかりだったんで、みんなそっちに流れていくんですけど、僕はそれがすごく嫌で。ある意味尖ってたから、みんなが聴いていない音楽を聴きたいというのも、YMOを好きになった理由の一つだったと思います。「これを聴いている俺ってオシャレ」じゃないけど。
弘石:わかります。僕は親から「暴走族には絶対になるな」「バイクはダメだけど、シンセだったら買ってやる」と言われていて。ただ、複数の音が同時に出せるポリフォニックシンセは100万円近くしたんですよ。なので単音しか出せない10万円くらいのシンセを買ってもらって。
塙:それでも高いですけどね(笑)。
弘石:それで、文化祭に出るために友達とYMOのコピーバンドを始めたんですよ。1年練習して6曲くらい演奏できるようになって。全部披露するつもりだったんですけど、当時はバンドブームで、文化祭にたくさんバンドが溢れていたから、結局「1バンドにつき3曲」ということになって。けど、僕らのバンドは最後の出演だったから、3曲終わっても演奏を続けられると思ったんです。そしたら4曲目を始めたところで先生がステージに上がってきて、コンセントを抜かれて、強制的に演奏を止められてしまって。校長室に呼ばれて怒られたんですけど、ある別の先生が「もう1回チャンスをやるから、ステージに上がれ」と言ってくれて。そしたら生徒も残ってくれていて「RYDEEN」をやったらすごく盛り上がりました。
塙:すごくいい話じゃないですか!
弘石:「1バンドにつき3曲」って言われた時も、「それだと納得できないから、文化祭を2日間にしたい」っていう署名を集めて職員室に持っていったんですよね。結局それは叶わなかったけど、そういう署名運動もYMOからの影響なんです。『サウンドストリート』(NHK-FM)で坂本龍一さんが、学生運動の特集をしたことがあって。「こんなカッコいい音楽を作ってる人が、若いときはそんな活動をしてたんだ」と知りました。
塙:なるほど。しかも大人になってからアルファレコードに入って、YMOのメンバーと仕事をするなんて、夢が叶ってますね。僕は音楽をやりたいと思ったことがなくて、お笑いの道に行きました。兄(はなわ)はベースを弾いてますけど、楽器を弾くのって照れくさいというか、カッコつけなきゃやれない気がしてしまって。