キャンティ、YMO、シティポップ……すべてはつなががっている 村井邦彦×川添象郎×吉田俊宏 鼎談【後篇】

村井邦彦×川添象郎×吉田俊宏 鼎談【後篇】

 村井邦彦と川添象郎と吉田俊宏が、アルファレコード設立のストーリーや小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』について語る鼎談企画。前篇『アルファレコードにはなぜ超一流の才能が集ったのか?』では、音楽ファンの間で話題となっているアルファミュージック公式YouTubeチャンネルや、川添象郎がプロデュースしたミュージカル『ヘアー』についての貴重なエピソードが語られた。後篇では、川添紫郎とファッション界のつながりや、7月3日に東京芸術劇場にて開催される村井邦彦のコンサート『「モンパルナス1934」KUNI MURAI』と新曲録音プロジェクトについて、さらにはYMOの世界ツアーにまで話が及んだ。(編集部)

※メイン写真:左から、ミッシェル伊藤、村井邦彦、スティーブ・ガッド、村井の妻、ウォルト・ファウラー。新曲「MONTPARNASSE 1934」レコーディング現場にて。

うぶごえ「村井邦彦、新曲録音プロジェクト」
「モンパルナス1934~キャンティ前史~」特集ページ

前篇はこちら

アルファレコードにはなぜ超一流の才能が集ったのか? 村井邦彦×川添象郎×吉田俊宏 鼎談【前篇】

「翼をください」「虹と雪のバラード」などを生んだ作曲家であり、荒井由実(現・松任谷由実)やYMOを輩出したアルファレコードの設立…

ファッション界との繋がり

ロバート・キャパ(左)と川添紫郎(右)

吉田:なるほど。時代は少し後になりますが、川添紫郎(浩史)さんのプロデュースで文楽のアメリカ公演をやりましたね。シアトル万国博覧会で。1962年ですね。

川添:やりました。僕はちょうどニューヨークのグリニッチビレッジに住んでいたんですよ。いきなり親父から「文楽という伝統的な人形の芝居を万博で公演することになった。舞台監督としてシアトルに来い」と手紙が届いたわけ。

吉田:まだ象郎さんは21歳ですよね。

川添:そうなの。なぜ僕にそんな仕事を任せるのかといえば、アメリカのユニオン(組合)の規定で、舞台のキューを出す、つまり進行係の仕事はユニオンのライセンスを持っていなくちゃいけないからなの。僕はその前にラスベガスで舞台監督の許可証をもらっていたんだよね。それにアメリカ人を雇っても文楽なんてちんぷんかんぷんで分からないけど、日本人のおまえなら何とかなるだろうって、そういう理由でね。

吉田:象郎さんは文楽についてある程度の知識はあったのですか。

川添:ニューヨークにテープを送ってもらって、出し物を聴きまくってからシアトルに乗り込みました。そもそも文楽って舞台の明かりを付けっ放しにして上演するものだから、照明の切り替えのキューを出す舞台監督なんて必要ないんじゃないかと思ったんだけど。

吉田:なるほど。

川添:ところが、親父(川添紫郎)が凝っちゃってね。例えば「八百屋お七」に、お七が火の見やぐらにのぼって半鐘をたたきまくるシーンがあるんだけど、周りを全部赤い色に染めて、お七だけをスポットライトで抜いて…といったことをやりたいっていうのよ。確かにその方がアメリカ人には分かりやすいの。しかし、そのためには照明を切り替えるきっかけが必要になるわけね。いわゆるキューってやつです。そんなわけで僕はシアトル万博の文楽公演の舞台監督をずっとやったんですよ。

吉田:貴重なご経験ですね。そのシアトル万博の前だと思いますが、象郎さんは1962年2月にニューヨークでお母さまの原智恵子さん(クラシックの名ピアニスト)に会われていますよね。

川添:会いましたね。(世界的なチェリストの)ガスパール・カサドと原智恵子のデュエットコンサートがあって、その時に呼び出されていったんです。その後、ワシントンにも行ったかな。

吉田:ワシントンで弘子さんのお宅に行かれていますよね。智恵子さんの妹、叔母さんに当たる方ですか?

川添:いやあ、よくご存じで。

村井:あははは。

吉田:いろいろと調べましたから。

川添:びっくりだね。そうそう、弘子おばさんの家に行って、みんなで会いました。ワシントンのコンサートもありましたね。僕が幼い頃、おふくろがコンサートで留守をしがちだったんだけど、代わりに我が家に泊まって僕らの面倒を見てくれたのが、その弘子おばさんだったの。すごくきれいな人だった。

吉田:象郎さんが幼い頃の紫郎さんの印象は。

川添:家には全くいなかった。家で親父を見かけたのは1回か2回ぐらいしかなくて、その時は晩ごはんの席でね。おふくろとフランス語でケンカしていたのを覚えています。その頃から、もめていたみたい。

村井:あははは。

吉田:へえ、そうなんですか。

川添:それでね、1週間か10日に1回くらいだったかな、車で迎えにきて中華料理店に連れていかれました。僕と弟で。

吉田:お母さまは一緒ではなく?

川添:そうです。おふくろ抜きで、子供たちだけ連れていかれた。

吉田:つまり紫郎さんと智恵子さんは別居されていたわけですね。

川添:そうです。別居です。それに親父は国際文化交流の活動で世界中を飛び回っていましたしね。

吉田:川添紫郎(浩史)さんは欧米のいろんな文化人を日本に紹介されていますよね。ジジ・ジャンメール(バレエダンサー)もそうでしたか。

川添:そうそう、僕はジジとはパリで会っていますよ。

吉田:そうなんですか。ジジの来日が1964年です。

川添:それより前ですね。ローラン・プティっていう振付師も交えて、一緒に食事しました。

吉田:ジジはプティの奥さんですものね。

川添:あれ、そうだっけか。

吉田:はい。それでジジが来日した時、プティが振り付けを担当して、イヴ・サン=ローランが衣装を手がけているんです。川添紫郎さんの人脈の匂いがしますよね。

川添:それはね、パリにシュザンヌ・リュリングという女史がいたんです。クリスチャン・ディオールの宣伝担当重役をやっていた大柄な女性で、親父とすごく仲が良かったの。親父がディオールを日本に紹介したのがきっかけなんです。それでディオールからイヴ・サン=ローランが独立した時、マダム・リュリングもサン=ローランと一緒に仕事をするようになった。それで親父はマダムとの関係から、今度はサン=ローランを日本に紹介したわけです。僕もサン=ローランには何度も会っていますよ。

吉田:日本におけるファッションの発信源になっていたわけですね。

川添:そうそう。その前にディオールの会社からピエール・カルダンも独立しているんだけど、親父はカルダンとも仲が良かったらしくてね。あるとき僕がね、パリでお金がなくなっちゃって、親父に手紙を書いて「金がないから何とかしてよ」って頼んだんだよ。すぐに返事が届いて、パリにカルダンという洋服屋の知り合いがいて、お金を貸してもらえるように話をつけたから、訪ねていきなさいっていうんだな。

吉田:洋服屋ですか。

川添:そう、洋服屋っていうから、小さな店かと思っていたら、えらく綺麗で大きなブティックでさ。店に入って「シロー・カワゾエの息子です。カルダンさんに会いたい」と言ったわけ。そうしたら「お待ちしておりました」って、うやうやしく通されたの。

吉田:うやうやしく。

川添:うん。カルダンが「シローの息子か、よく来たな」って迎えてくれて、しばらく与太話をしてから「お金が要るんだって? 用意してあるよ」って言うの。それでいきなり後ろのでかい金庫を開けて、とんでもない量の札束を取り出して「好きなだけ持っていけ」ってドサッと机の上に置いたわけ。

吉田:すごい話ですね。

川添:これ全部持っていっちゃおうかなって思ったんだけど。

村井、吉田:あははは。

川添:やっぱり、それはまずいからね。ちゃんと勘定して、これだけお借りしましたって借用書を書いてさ、ピエールに渡したの。彼はじーっと見ていたんだよね。それで信用されたんだと思うんだけど、僕はピエール・カルダンの仕事を後年やることになるんです。

村井:それ、1960年代の話だよね。あの頃、外国で日本人がお金をもらいにいくなんて、なかなかないよ。

川添:ひゃっはっはっ。

村井:でも、ああいうヨーロッパの人たちって一度信用すると、その後はすごいんだよ。僕たちがパリに行ってバークレイ・レコードの仕事をしていた時も、お金がなくなるとバッサバサ出してくれたもんなあ。

川添:あははは、そうだったね。

村井:それもこれも川添紫郎さんの信用なんだよね。

川添:そうなんだよ。それはでかいね、やっぱり。

村井:紫郎さんはよくそこまで付き合っていたなって感心しちゃうよ。友達の息子が外国から訪ねてきたからって、ポンと大金を出してくれる人なんて、なかなかいないよ。

川添:そういえばそうだね。

村井:すごいよ。よっぽど仲が良かったんだな。

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