『電波少年』土屋敏男氏が明かす、爆風スランプ・前田亘輝ら参加「ヒッチハイク3部作」で生まれた数々の奇跡【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第2回】

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第2回

「朋友のアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」では野宿中に見張り

 シリーズ第3弾はお笑い芸人ではなく、俳優を目指す伊藤高史と香港でラジオDJなどの活動をしていたチューヤンがこの旅で出会い、絆を深めていく。「朋友(パンヤオ)のアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」。完結編にふさわしいものとなった。
 久保田利伸と親交のある番組の司会者・松本明子が、チューヤンのプロフィールに「好きな歌手:久保田利伸」とあるのを発見し、本人に直接交渉、自らニューヨークの久保田利伸のスタジオに飛ぶ。

「第3弾の朋友はアッコ(松本明子)の気持ちもあり、久保田(利伸)さんになったんだけど、制作者の意図なり、クリエイティブなり、出来上がるものに対して何ができるかということを真摯にやってくれた」

 この時の応援ソングが、久保田利伸の20枚目のシングル曲「AHHHHH!」(1998年)である。

「ニューヨークで久保田さんがレコーディングした映像を(収録して)その足でアッコが朋友に届けるのだが、そのまんまアフリカ(タンザニア)に行って、テントで野宿するんですよ。アッコでしょ、ディレクターでしょ、僕でしょ。そして、吉田さん。僕らテントの立て方も知らない。テントも借りたはいいけど、テントがちゃんと立ってないところに、こたつみたいにして入って。野生動物が来るかもしれないからっていって、2時間おきに順番に起きて、(火の番をして)見張りをするんですよ。そんなことも一緒にやってくれましたね」

 「ヒッチハイク3部作」の後、敬さんはデフスターレコーズの社長に38歳の若さで就任することとなる。

「若かったよね。社長って感じの貫禄はなかったよな。人に警戒心を持たせないというか、この人が人を騙すってことはないだろうなって思わせるところがすごくあったし。それだからこそ社内で認められたのかな」

 社内レーベルで、次々と新たなアーティストを仕掛けヒットさせていく敬さんと『電波少年』のなかで、新たなヒット企画を連発していく土屋氏との交流はここでいったん休止となった。
 兄弟番組『雷波少年』でのヒット企画「雷波少年系ラストチャンス」は、ヒッチハイク企画で実践されたヒューマンドキュメンタリーの手法の主人公を売れないアーティストにもっていった、業界をあっといわせた企画だった。
 極めつきはロバのロシナンテの歌手デビューだ。

「暴挙ですね。レコード会社の局担に人参を持って並んでもらって、ロシナンテが食べた人参を持っていたレーベルからデビューという。曲を書いた石井(竜也)さんは怒ってたな」

「積み上げて奇跡を作ってくれた、大切な仲間の1人」

 2001年、土屋氏は編成部長に就任。テレビ番組制作から離れ、2003年、コンテンツ事業推進部長に就任する。同じ、2003年、敬さんはワーナーミュージック・ジャパンに電撃移籍し、社長に就任した。しかし、就任当初は外資系のシステムに慣れずに、相当苦しんでいたと記憶する。そんな頃、突然土屋氏に呼び出されて激励されたと敬さんから聞いたことがあった。

「ワーナーのビルにも行った記憶はある。まあ、いい時もあるし、悪い時もある。(外資は)日本の会社とは違うからね。やっぱりあれだけ細かいことに気配りできる人だから、そういう意味では、きついんだっていう感じはあったかもしれない。そんな時、(ブレイク前の)コブクロを熱心にプロモーションされた記憶がある。それで、自分のプロデュースするパリのルーヴル美術館展のイベントにコブクロを呼んだんだ。フランス人だから鼻が高いだろう、みたいなイメージでステージ中央に特大の鼻のオブジェを作って、そこでパフォーマンスしてもらった」

 コブクロが日本テレビのドラマ『瑠璃の島』の主題歌「ここにしか咲かない花」(2005年)でブレイクのきっかけをつかみ始めた頃だった。
 それが敬さんと土屋氏との最後の仕事となった。
 それから数年、突然の訃報はスポーツ紙で知ったという。

「驚いて駆けつけたかったけど、それが叶わなかったことが悔やまれる」

 最後にこんなエピソードを土屋氏に伝えてみたくなった。敬さんの同級生が働く出版社に『電波少年』の取材で松本明子がアポなしで現れた。対応で大わらわのなか、ふとロケスタッフの中に敬さんの姿をみつけたという。

「その話は覚えてないんだけど、それを聞いて一つ思い出したのは、『電波少年』で吉田さんの会社(ソニーミュージック)にアポなしに行ったことがあるんですよ。そしたら吉田さんから電話がかかってきて『来るんだったら1本電話くださいよ。でも……しないですよね……』って。その時にあらためて『俺はこの業界に友達を作っちゃいけないんだな』と思いましたよ。宿命として電話ができない。“アポなし”じゃなくなっちゃいますからね。
 その話でいえば、もしかしたら吉田さんもロケに参加して一緒に面白がってくれてたんでしょうね。いろんな意味でスタッフの1人になってくれたのだと思います。
 テレビとして、コンテンツとして一緒に積み上げて、積み上げて、積み上げて奇跡を作ってくれた、大切な仲間の1人ですよ。普通はミュージシャン側に立って守る側にまわることがほとんどだと思うんですけど、吉田さんはもう一歩こっちに近づいてくれるというか、番組の意図をちゃんと理解して作ってくれるというか。このバランスは本当に吉田さんだけでしたね」

評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 第0回「敬さんに近づく旅」

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