「SMAPは戦友のような感じ」 観月ありさが振り返る、長いキャリアを通じて学んできたこと

観月ありさが語る、SMAPらとのエピソード

SMAP、小室哲哉らと過ごした90年代

ーーそして1992年になると、ZARDやSMAPらとともに『日本ゴールドディスク大賞』のベスト5ニュー・アーティスト賞に選ばれました。特に、SMAPに関しては昔から交流がありますよね。

観月:11歳の時に出会っているので、付き合いはかなり長いですね。私がSMAPと最初に会ったのは、とある撮影でした。お互いに子供モデルみたいな枠で呼ばれていて、私のことなんて誰も知らないですし、SMAPもファンの方はいたけど世間的な知名度はまだそこまでで。

ーーそんなに前から出会っていたんですね。

観月:しかも同じ91年デビューということもあって、リハーサルスタジオでもよく会っていたんですよ。それこそSMAPは下積み時代が長いから「俺らもやっとデビューできるよ!」なんて、嬉しそうに中居(正広)くんが言っていたのを覚えています。お互いに売れる前から知っているから、SMAPは戦友のような感じ。だからちょっと思い入れが違いますね。

ーー同じく92年といえば、小室哲哉さんが観月さんに初めて楽曲提供(「TOO SHY SHY BOY!」)をされました。小室さんが曲を書くことになったのは、どんな流れがあったんですか?

観月:私がTM NETWORKのファンだったんです。それに小室さんの提供曲は本当に素敵な曲が多いので、私から社長に提案して書いていただくことになりました。それこそ「TOO SHY SHY BOY!」の時は、小室さんが目の前でピアノを弾きながら「ここはこのキーです」と教えてもらって。それから何曲も提供してくださるようになったんですよね。当時、小室さんは曲を書いて自らMDを渡しに来てくれたりして。とても気さくな方で、フットワークも軽くて。

観月ありさ「TOO SHY SHY BOY!」LIVE FILM 1992【Official】

ーー1994年以降から、小室さんのプロデュース楽曲がオリコンチャートの上位を埋め尽くす現象が起きて、世間では“TKブーム”や“小室ブーム”と言われていました。

観月:プロデューサーとしてワーっと盛り上がっていた頃も、ご本人は初めて会った時のままで何も変わらなかったです。それでいて、会うたびに「最近はどんなことにハマってるの?」とか「どんなことに興味を持ってるの?」と雑談をするんですよ。私が「最近、車の免許を取ったんですよ。いつかはオープンカーに乗りたいんですよね!」と言ったら、小室さんも車好きだから「良いよね、車! じゃあconvertible(※オープンカーの呼称)ってグループ名を作ろうよ」と言って、それでできたのが「oh-darling」(※ALISAとKAYATOによるユニット convertible名義でリリース)なんです。

ーー観月さんが免許を取ったのがきっかけで生まれたんですね。

観月:他にも「忙しいからご飯を食べるのも夜遅くになるでしょ? どこで食べてるの?」みたいな話になって。当時、青山にSARAという夜中も開いてるお店があったんです。「そこでよくご飯を食べてます」なんて言って。ちなみにSARAのドアにはベルが付いていて、開けるとカランカランって音がするんですよ。ある日、小室さんが「あのドアの音を録りに言ったんだ」って(笑)。

ーーすごい!

観月:そんな流れから「Close to you」という曲が生まれたんです。だから歌詞には〈青山は SARAならまだ開いてるよ〉というフレーズが入っているし、SARAのドアと店内の音もしっかり入っていて。そういう他愛のない雑談を切り取って曲にするのが、小室さんはとても上手で。あの頃は多くの楽曲提供の仕事を抱えていたと思うんですけど、忙しい中でよくあれだけの頻度で、数々の素敵な曲を書いてくださったなって。

ーー1996年、観月さんの代表作の1つでもあるドラマ『ナースのお仕事』(フジテレビ系)がスタートしました。こちらの主題歌「PROMISE to PROMISE」も小室さんの提供曲ですね。

観月:小室さんには事前に台本をお渡しして、ドラマのプロデューサーの思いも聞いてもらって、「PROMISE to PROMISE」を書いていただきました。『ナースのお仕事』は終始明るいテンションのドラマだったのもあり「エンディングで落ち着きたい」ということで、ミディアムテンポの曲を書かれたんだと思います。

ーー『ナースのお仕事』は観月さんの俳優人生においても、大きなターニングポイントになっているのかなと思います。というのも、それまではコミカルな役を演じてこなかったですよね。

観月:そうですね。実年齢よりも背伸びしている謎めいた少女とか、大人の男性に恋をする女の子とか、割と大人びた役が多くて。『ナースのお仕事』以降から等身大の役ができるようになって……そこからですよね、女優としての第二章が始まったのは。メディアでの見え方も大きく変わったし、役を通して好感度や親しみやすさが上がって。それまでは道を歩いていても、話しかけられることが滅多になかったんですよ。

ーー役の印象が強かったんですかね。

観月:「喋らない」「怖い」というイメージがあったと思うんですけど、『ナースのお仕事』を始めてから、色々な人に話しかけられるようになって。歩いていて隣に車が止まったと思ったら「頑張ってねー!」と言って去っていくお兄さんとか、スタジオで出前を頼むとお店の方が「いつも見てるよ! あのドラマ面白いね!」とか、みんなからフレンドリーに話しかけられるようになりました(笑)。その時は19歳くらいでしたけど「演じる役によって、こんなにみんなのイメージが変わるんだな」って。

ーーそれ以降のターニングポイントといえば、どんな時が思い浮かびますか。

観月:26歳まで『ナースのお仕事』シリーズに出演していたのもあり、20代はコミカルな役が多くて。女優としての第三章に突入したのは30歳を迎えてからですね。というのも、30代になってから『斉藤さん』(日本テレビ系)もそうですけど、母親の役が増えたんです。あとは時代劇をやるようになったり、舞台に出演したりと、今まで縁遠かったお仕事をやるようになって。それも心境の変化があったんですよね。

ーー心境の変化ですか?

観月:10代、20代の時は臆病だったので「舞台なんて私には無理です!」と言って、軒並み断っていたんです。ミュージカルの話もいただいたんですけど、お断りしていて。

ーーそれはどうして?

観月:舞台=怖いというイメージがあったんです。だけど30代になってから、失敗しても良いからやってみようと、自分の中で舞台を前向きに捉えるようになりました。何より女優として本格派にならなきゃダメだな、と30代で思ったんです。そのためにはいろんな分野をやらないと、本格派に見えない。それで舞台もやって、時代劇もやってとお仕事の幅を広げていったんです。今となれば、もっと早く挑戦しておけば良かったと思う反面、多分30代になってからの精神力でなければ、対応できなかったと思うんです。自分の精神力が図太くなっていないと、早々に気が滅入っていたと思います。

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