「SMAPは戦友のような感じ」 観月ありさが振り返る、長いキャリアを通じて学んできたこと
アーティストデビューから30年以上が経つとともに、俳優、モデルを含めた芸能活動において長いキャリアを誇る観月ありさ。6月にアーティスト活動30周年記念アルバム『Ali30』をリリースし、この夏は数多くの歌番組にも出演中だ。
そんな観月ありさが音楽活動を始めるに至るまでの経緯、90年代に同じ時間を過ごしたSMAPや小室哲哉らとのエピソード、そして足を止めることなく歩み続ける彼女の原動力は何なのか、話を聞いた。(編集部)
当初から「やりたいのは女優じゃなくて歌なんです」と話していた
ーー観月さんの音楽遍歴や、どのように芸能生活を歩んで来られたのかをお聞きしたいのですが、初めて観に行ったライブがEarth, Wind & Fireなんですよね?
観月ありさ(以下、観月):幼少の時に母と観に行きました。というのも母の影響でソウルミュージックとかR&Bを聴くのが、異常に早かったんです。幼稚園の頃からThe Stylisticsとか、ムーディなソウルミュージックを聴かされていて。それこそディスコのダンスタイムとかチークタイムに流れるような音楽を聴いて育ったんですよね。なので、洋楽への目覚めがすごく早かったんです。母が「アース最高!」と言って家でよく流していたから、初ライブの時も「やっぱりアースはカッコいいね!」なんて言いながら、親子で興奮してステージを観ていた記憶が今も鮮明に残っています。
ーー周りの友達と温度差があったんじゃないですか。
観月:ありましたね(笑)。同級生が光GENJIに熱狂している時も、私は「マイケル・ジャクソン、カッコいい!」「やっぱりホイットニー・ヒューストンだよね!」「マドンナも良いよね!」なんて言いながら、洋楽のポップスを聴いていて。もう少ししたらNew Kids On The Blockとか、当時のヤングアーティストに触れたり。かと思えば、ロックにも興味を持つようになって。元々Duran Duranは聴いていたんですけど、より深くUKロックに行ったり。かと思ったら急にフランスの音楽やパンクに行ってみたり。90年代になるとThe Smashing Pumpkins、Red Hot Chili Peppersとか。高校時代はレニー・クラヴィッツが大好きでしたね。振り返ると色々な洋楽を聴いてきました。
ーーEarth, Wind & Fireのライブを観に行っていた頃には、もうモデル活動もしていたんですか。
観月:やっていました。4歳からモデル活動をしていたんですけど、その年頃の女の子にしては音楽の好みがちょっと渋めでした(笑)。
ーーそれだけ若くして音楽に関心を持っていたら、音楽活動への想いも強かった?
観月:強かったですね。小学生の頃、麻布十番に住んでいたんですけど、近所に可愛がってくれるお姉さんがいて。そのお姉さんは、いつもレコーディングスタジオへ遊びに行ってる人だったんですよ。ある日「ありさちゃんも一緒に行こうよ」とスタジオに連れて行ってもらって。何度も通っているうちに、気づけばそこが私の遊び場になっていたんです。
ーー遊ぶと言いますと、どんな風に?
観月:錚々たるミュージシャンの方達が集まっていたので、レコーディングする姿を間近で見たり、音作りの様子を見せてもらったり、私も歌わせてもらったりして。その時は小学4、5年生だったんですけど「音楽って楽しいな」「私も歌手になりたいな」と思ったんです。だからお芝居をやることよりも、音楽をやるのが私の中で最重要項目でした。それが主軸になっていたので、事務所も音楽に力を注いでいるライジングプロダクションに入れてもらって。
ーーそれだけ歌手になることが、最もプライオリティが高かった。
観月:小さい頃からモデルもやったり、ドラマも少しずつ出ていたから、周りや世間の方は「女優が先だよね」という認識ですけど、気持ち的には歌うことが最終目標だったんですよね。だからデビューが決まった時は、本当に嬉しかったです。
ーー歌手デビューはどうやって決まったんですか。
観月:事務所に所属した当初から「やりたいのは女優じゃなくて歌なんです」と社長に話していたので、「それなら歌を聴かせてくれ」と言われて。忘れもしないんですけど、カラオケボックスみたいな部屋に呼ばれて、社長の目の前で尾崎亜美さんが作詞作曲された杏里さんの「オリビアを聴きながら」を歌って。そうしたら「良いじゃないか! 歌手デビューしよう!」ということで決まったんですよね。だから意外とデビューすることはすんなり決まって、私が「尾崎亜美さんに曲を書いて欲しいです」と言っていたのもあり、楽曲もすぐに決まりました。トントン拍子でデビューまでは決まったんだけど、そこまでの道は長かったですね。モデルやお芝居をしながら、だけど最終目標は歌手という。デビューするレールに乗るまでに時間はかかりました。
ーー1991年、14歳の時、『伝説の少女』で歌手デビューをするとその年の『レコード大賞』で新人賞を、さらに『ゴールデン・アロー賞』に選ばれて。女優としては初主演映画『超少女REIKO』が上映されました。すごい勢いで芸能界の階段を駆け上がりましたよね。
観月:14歳で人生がガラッと変わったので、色々なことを消化するのが大変ではありましたね。お芝居に関しても、経験はあると言ったって演技レッスンを受けたことはないし、素人同然だから右も左も分からない。それでいきなり主演映画が決まったので「私はどうしたらいいんだろう!?」って。音楽もお芝居も現場で学んでいく感じでしたね。今考えると、あの頃の自分に「よくやったよ!」と言いたいぐらい(笑)。
ーーその頃に観月さんが表紙を飾った『Olive』を始め、『週刊プレイボーイ』など色々と雑誌を拝見しましたけど、14歳にしては大人っぽさを求められていたのかなって。
観月:同年代の子が読むような雑誌の仕事をしていなくて。特に『Olive』って、当時は20歳前後をターゲットにした雑誌だったんですけど、私は13歳の頃から出ていたんです。ブランドのファッションショーにも出ましたが、そこでも1人だけ子供が混じっているシチュエーションが多かった。自分の中では違和感はなかったんですけど、確かに大人っぽさを求められていましたね。しかも周りに大人の方が多かったから、私も子供ながらに大人びていたんですよ。「こういう楽曲が歌いたい」とか「この衣装がいい」とか、こだわりを持つのも早かったです。
ーー小泉今日子さんから電話がかかってきたのも、その頃ですよね?
観月:歌手デビューした14歳の頃、ちょうどモデルとしてもブレイクし始めた時期です。私が出ている雑誌を見て、キョンちゃん(小泉今日子)が興味を持ってくれたみたいで。『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)にキョンちゃんが出る時に、私に会いたいと言ってくれて。楽屋を訪ねたら「電話番号教えて!」と言われたんです。当時は携帯がないから家電なんですよ。お互いに番号を教えあった後、本当にキョンちゃんから電話がかかってきて。母が「なんか、小泉さんって方から電話なんだけど……」と言うから「それ、キョンキョンだよ!」って。
ーー当時の小泉さんと言えば「あなたに会えてよかった」がミリオンヒットして、『レコード大賞』を総なめにしましたからね。まさか、そんな有名人から電話がかかって来るとは思わないですよね。
観月:それから2人で長電話をするようになったり、一緒にドライブしたり、食事へ連れて行ってもらったり。ご本人の自宅で手料理をご馳走になったこともあって。ともすれば、同じ空間にいるのに私は漫画を読んで、キョンちゃんはひたすら小説を読んだりして。一緒にいるけど、そんなに喋らなくてもいい関係性、みたいな。
ーーいい意味で気を遣わない関係だった。
観月:キョンちゃんは11歳上なんですけど、年の差を全く感じさせないし、お互いにすごくマイペースにいられる存在なんです。本当にお世話になりましたね。