SPEEDは4人揃うと「もはや無敵」 hiroが明かす、26年分の思いとグループの行方

hiro、26年分の思いとグループの行方

 2021年、SPEEDが25周年を迎えた。大きな節目を迎えたグループは誕生から四半世紀経ってもなお、色褪せることなく多くの記憶と記録のもと輝き続けている。そんなSPEEDのメンバーで今も音楽活動を続けている島袋寛子が、hiro名義としては久々となるニューアルバム『0』をリリースした。『0』という意味深にも感じられるタイトルに込められた思いとは? SPEEDのデビューから解散を決断するまでの心境、ソロとして今も活動を続ける意味、そして「4人でやるのはやっぱり楽しい」と明かした“今後のSPEEDの行方”まで、26年分の思いをhiroに聞いた。(編集部)

「良くなかったら、いつでも沖縄に帰すぞ」と言われていた

ーー去年SPEEDが結成25周年を迎え、またhiroさん自身も“hiro”名義で約15年ぶりに新曲を発表されました。そこで今回は、どのように26年間の音楽人生を歩んで来られたのかを、じっくりお聞きしたいと思います。まず、SPEEDの出現というのは、その後のガールズグループに大きな影響を与えたと思うんですけど、hiroさんの見解はどうでしょう?

hiro:SPEEDの国民的感というのがどの程度だったのか、当事者の自分は外から見ることができなかったですし、分からないですけど。確かに、10代の若い子たちが歌って踊るガールズグループの先駆けだった気はしますよね。

ーー今はガールズグループと言っても、ダンスグループやアイドルなどジャンルの棲み分けがハッキリしていますが、SPEEDがすごいのは、どちらの要素も一手に引き受けていたことだと思うんですよね。

hiro:それはありますよね。レコード会社の方にも「SPEEDはダンスボーカルとアイドルの要素がある」と言われました。10代特有の子供っぽさを出してアイドル的に見せつつ、歌って踊るときにはアーティストモードのスイッチを入れる。そういう見せ方のバランスは考えていたと思うし、だからこそ親しみやすさもあったのかなって。

ーー初めてテレビに出演されたのが、『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ系)で1995年。hiroさんは当時11歳で、にこやかにトークされていましたけど、その裏では結構厳しいことを言われていたとか。

hiro:元々は沖縄のタレント養成所に入っていて、そこで小学生のグループが組まれ、そこから4人が選ばれ東京へ向かいました。東京では『ヒッパレ』の出演に向けて、朝から夜まで毎日レッスンでした。それこそ『ヒッパレ』に初めて出たときは、事務所の方から「良くなかったら、いつでも沖縄に帰すぞ」と言われて。

ーー相当なプレッシャーをかけられていた。

hiro:子供ながらに「すごく試されているんだな」と感じたし、これがチャンスだということも分かっていたから、一生懸命歌って踊りました。しかも次に呼ばれるかどうかも決まってないので、とにかく結果を出さなきゃいけない。あの頃は、収録に呼ばれると本番の1週間前から披露する曲のレッスンを1日中していて。何回か番組に出演したあるとき、レコード会社の方が現場を見に来られて、収録直後に呼び出されたんですよ。TV局のリハーサル部屋みたいなところに連れていかれ、レコード会社の方の前で曲を披露したら、それがデビューに繋がったんです。ありがたいことに、私たちのスタイルを尊重してくださって「普段の彼女たちを見せていこう」ということで、スニーカーとダボダボしたアメリカンな服装で世に出ることになりました。

ーー1996年にリリースしたデビュー曲「Body & Soul」は累計60万枚を売り上げ、いきなりスマッシュヒットとなりました。この結果をどう受け止めていましたか?

hiro:売上枚数よりもランキングの方が分かりやすかったです。小学生だったし、60万枚と言われてもピンと来なかったですね。というのも、90年代後半の音楽業界ってミリオンヒットがバンバン出ていたので。「Body & Soul」はミリオンではなかったけれど、今考えてもものすごいデビュー曲だったと思います。だって、全部の歌詞がストレートじゃないですか。当時のスタッフさんは30代前半で、かなりの挑戦だったはず。楽曲にしても4人の歌って踊る様にしても「よし! これなら売れる!」と思っていたのかどうか、あのときのスタッフさんに聞きたいですね。

ーー「Body & Soul」は今聴いても尖ってますよね。

hiro:すごい尖ってる! あの頃は先輩に小室哲哉さんがいたり、ロックバンドも流行っている中、〈Body & Soul〉って腰パンでダボダボした服装の子供たちが歌うわけですから。あのやり方はすごいですよ。それで2ndシングル『STEADY』が初ミリオンになって。そこからですよね、状況が目まぐるしく変わったのは。

ーー12〜15歳の少女4人が一躍時の人になりましたからね。

hiro:SPEEDに限らず、あの頃はとにかくCDが売れていたし、みんなが同じ曲を聴いて歌って振りも真似して、みたいな。国民全員がヒットソングを知ってる現象って中々生まれないけど、あの頃は割と生まれていたので、すごい時代だったと思います。

SPEED解散を決断した理由

ーー先ほど「90年代後半はミリオンヒットがバンバン出ていた」とおっしゃっていましたけど、SPEEDに関してはダブルミリオンとかトリプルミリオンも出していて。街のいたる所で曲が流れていましたよね。

hiro:(頷きながら)本当にそうでした。

ーー活躍は音楽だけに留まらず、1998年にはメンバー主演の映画『アンドロメディア』が制作され、『日刊スポーツ映画大賞』新人賞も受賞されて。

hiro:なぜ映画をやらせようと思ったのか分からないけれど、題材が近未来で監督は三池(崇)さんですし、一つひとつの要素がすごくて、映画の話を聞いたときはとても興奮しました。楽しそうというか、絶対に良い役をやりたいって。

ーー実際“AI”というかなり難しい役を務めましたね。

hiro:理解するのが難しかったですね。今ではネットとか色々なものが進歩しているから身近に感じますけど、98年当時はまだ「コンピューターとは? A Iとは?」みたいな。しかも初演技なのにほぼブルーバックで、誰ともあまり関わっていなくて。でも、演技はすごく楽しかったです。感覚的な部分ではできなかったけど、感情を動かすという面では三池さんが私を信頼してくれているのかなと思えたし、台本にないところで涙が出たりしたんですよ。

ーーその後、グループの大きな変化としては、1999年にそれぞれがソロ活動を始めたことですよね。あのときからSPEEDを終えて、次の人生を歩もうとしていたのかなと思ったんですけど。

hiro:そうではないですね。SPEEDが多くの方々に愛してもらえるようになったから、次のステップとして全員がソロ活動を始めることによって、個々の才能を広げていこうと。解散というよりは、むしろグループの寿命を長くするための展開だったと思います。

ーー翌年の2000年に解散をしますけど、当時の心境はどうでしたか。

hiro:複雑な気持ちでしたね。解散をするのが良い選択なのかどうかは、誰にも分からなかったし、ましてや人生経験の少ない10代の子には想像することも難しかった。だけど喜ぶことじゃないことも、大きな責任があることも十分に分かっていました。私の話で言うと、デビューから3年間はほぼ休みがなくて。朝は学校へ行って、放課後は仕事をして、夏休みになったら秋までツアーがあって。常にスケジュールがぎっしり埋まっていたんですよね。

ーー生活の全てがSPEEDだった。

hiro:小さい頃からの“歌手になる夢”が叶って嬉しかったけど、人としての経験とかプライベートな時間というのは全くない。デビューした年齢が12歳と幼かったから、全てにおいて物事を考える基準がほとんどできていない。あと、「人気がずっと続くわけではない」と当時から4人とも言っていて。そういう色々なことを考え始めたタイミングでソロ活動が始まり、1人で考える時間が増えたことで「これはどこに向かっているんだろう?」と冷静に考えるようになったんです。

ーー夢が叶って嬉しかったけど、他に考えることが生まれた。

hiro:そうです。このままで自分は良いのか? この状況はいつまで続くのか? 続いた先はどうなのか?って。ある程度大人になったら、うまく心のバランスを保つことができると思うんですけど、子供だったこともあって全部管理されていたので。そこにちょっとした危機感が生まれたり、不安みたいなものが芽生えていたのかなと、私個人は思っています。だからと言って、他の3人の意見とか、会社や色々な人の考えもあるわけで。社長を含め、みんなで話し合いをして「解散」「休養」「休止」と選択肢がある中、最終的に解散を選んだ。すごく考えた上での結論でしたね。

ーーもしあの時解散していなかったら、どうなっていたんでしょう?

hiro:それは分からないです。ただ、あんなに恐ろしいことは後にも先にもないですね。あれだけ大きなものを止めるというか、手放すというのは、トラウマになるくらいの出来事でした。解散発表をしてからは、毎日がすごい緊張感に包まれていたし、ずっと重圧を感じていて。だから2000年3月31日の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)でのラストパフォーマンスが終わった翌日は、全身の力が抜けたのを覚えています。

ーー4大ドームツアーを開催したり、アルバム『Carry On my way』のリリースがあったり、『Mステ』でのパフォーマンスまで本当に多忙でしたよね。

hiro:感情も麻痺していたと思います。あれだけ忙しいと、ちょっと鈍感にならないとできないこともあるので。“SPEEDの島袋寛子”を横に置けた瞬間は少し楽になったんですけど。だけど、私は今でもSPEEDだし、島袋寛子だし、いくつになっても一緒に生きていくものであることは変わらない。そうした思いは時間が経たないと分からなかったことだと思います。

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