橘高文彦が語る、32年の音楽人生で得た知恵と覚悟「HR/HMを貫いてきたことに誇りを感じる」

「100メートル走だと思ったら42.195キロ走ってた」

──Euphoria自体が、橘高さんの人生におけるテーマであるわけですね。

橘高:そう。俺、息子が3人いるんですけど、長男の名前が「ゆうほ(漢字表記は『遊歩』)」っていうんですよ。で、次男が「りあ(漢字表記は未公開のため割愛)」。2人合わせて「ゆうほりあ(Euphoria)」、キラキラネームなんですけどね(笑)。俺がこんなにネガティブな人間で人生いっつも悩んでばかりだから、人生を遊び歩くように朗らかに生きてほしいと思って長男に命名したのが始まりなんだけど、同時に、ステージを降りた家庭の中にも魅惑の楽園、「DREAM CASTLE」があればいいなと思って。あとこれは余談だけど、2005年に出した『NEVER ENDING STORY』というアルバムの1曲目が「EUPHORIA」ってタイトルなんです。当時「Euphoria Records」というレーベルも立ち上げて、Euphoriaという俺の信念の宣言でもあったんだけど、実は……「EUPHORIA」って曲の最初は心音から始まってるんだけど、実は次男の心音なの。

──え、そうだったんですね!

橘高:まだ妻のお腹の中にいる次男の心音を録って、それにいろんなエフェクトをかけて。魂を込めるという意味で心音を入れたんだけどね。で、中盤にアコギで3拍子を刻むパートがあるんだけど、そこに入ってる子供の声は長男の声。こういうのって外タレが言うとカッコいいんだけど、日本人の俺が言うとただの親バカみたいになっちゃうから、今まで一度も言わなかったんです(笑)。

──それ、めちゃめちゃいい話じゃないですか!

橘高:ふふふ(笑)。たくさんの熱心なファンに恵まれ、プライベートでは三男も生まれてどんどん魅惑の楽園に近づいてる気がする。さらには、Perpetual DreamerやZig+Zag、Pan-d-raとギタリストとしてもたくさんの遺伝子を残せたし、今後もプロデュースは続けるつもりです。Euphoriaとは、ずっと続いていくということなんです。Euphoriaという信念のおかげで、この30周年で4バンドのワンマンライブをすべて行うことができたし、他のメンバーも健康でいられるのかもしれない、なんておこがましいことを思いました(笑)。

──(笑)。では今は、20代のときとはまた違った楽しみ方ができてるわけですよね。

橘高:そうだね、本当に俺は幸せ者です。俺は昔から、このハードロック/ヘヴィメタル(以下、HR/HM)の様式美ギタリストとして殉教者のような覚悟を持ってずっとやってきたのね。でもいわゆるCD、音楽を売るということにおいては、俺でもさすがに「なぜこんなマニアックな音楽の殉教者になっちゃったんだろう?」と思うわけ。「世の中のセンターにあるポップミュージックの殉教者的になっていたら、もっと数多くの人を救えたのかもしれない」と気持ちが揺らいだ時期もあったんだけど、その都度思ったのは「いや、違うよやっぱり」と。俺はこのHR/HMに救われた人間だから今ミュージシャンをやっているわけであって、そういう音楽をずっと貫いてこれたってことに誇りを感じるようになったのね。実はこういう音楽って短命だと思ってたの。風当たりが強い時代を何度も経験してるし、パンクが出てきたときにはダサいものの象徴になっていたし。そういう中でも俺はこの音楽の素晴らしさを伝えたかったし、ここで死んでいきたいという思いが強かった。アスリートに例えたら、長距離走をやろうと思ってなかったから、無理だと思ってたの。

──短距離走ぐらいの気持ちでいたと。

橘高:そう、100メートル走で最速タイムを出せたらいいなと。なのに気がついたら42.195キロ走ってるような状態に今はなっている。すごいことだよね。このインタビューは特にティーンの子に読んでもらえたら嬉しいなと思うんだけど、みんなはこれから先の人生なんてまだ見えてなくていろいろ悩んでるかもしれないし、やりがいなんて見つけられるはずないと思ってるのかもしれない。俺は幸い早くに見つけられて、18歳でデビューできた。でもそのおかげで、早くに失望も経験している。だってAROUGEはアルバム1枚で解散してるから、10代にして人生終わったと思ってたし(笑)。みんなも不安だろうけど、その不安は今、そして今後の糧になるから。それは至福感につながるための不安だから。不安があればあるほど至福を感じられる人間になれると信じてると楽しいよというのが、今の10代の子たちに言いたいことかな。でも今の時代は大人になっても悩んでる人は多いよね。今は終身雇用じゃなくなって、サラリーマンも俺たちみたいなミュージシャンと同じ時代になったのかもしれない。俺は同世代の人にアドバイスできるほどの人間ではないけど、俺みたいな奴でも長年やってこられたってことを励みにしてもらえたらいいんじゃないかな。

「夢に対する思いが強ければ強いほど、苦しいことが苦しくなくなる」

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X.Y.Z.→A

──ちょっと話題は変わります。橘高さんは現在Euphoriaを含めると3つのバンドに在籍していることになりますが、昔のバンドマンは「固定のバンドはひとつだけ」みたいな固定観念が強かったですよね。

橘高:ありましたね。HR/HMの人間は特にそうでした。俺がどこかのバンドに呼ばれて、セッションしたりギターソロを弾いたりというのもあまりいいものではなかったし。そこに対して“きったかちゃん”は一番うるさかったから、俺はやらないように心がけていたんです。でも筋少が2年間活動休止をしましょうとミーティングで決まった1994年にEuphoriaができた。逆にそこでEuphoriaを作っておいてよかったなと。それがなかったら、その後も筋少1本になってただろうし、筋少を脱退してX.Y.Z.→Aを組んだ後も筋少を再結成するという話もできなかったと思うし。ただ、これが大槻の場合はバンドではなくて小説であったりエッセイであったりオカルトだったり超常現象であったり(笑)、いろんな手段でいろんな表現ができた。実は横で見ていて大変そうだと思いながらもすごいなと思っていて。だってスタジオにいても東スポから難しい本まで読んで、空き時間には映画を観に行って、その結果歌ってる時間が一番短かったんだから(笑)。

──大槻さんらしいですね(笑)。

橘高:でも俺には音楽だけだったから、音楽をいろんなバンドでやるなんていう選択肢は当時なかった。ところが今は、バンドを組む人間によってカラーが変わることが楽しいし、それこそがバンドのケミストリーだと思うし。音楽バカでもギターバカでもいろんな楽しみ方で、いろんなファンと会えることを知ったら、もうやめられないんだよね。だからEuphoriaもやりたいし、山田晃士とも一緒にやりたい(笑)。もういいですよ、4つやれたらやりたいですよ!(笑) あーあ、聞かれちゃった。“きったかちゃん”に「ついに言ったね」って言われそうですよ(笑)。

──(笑)。でも1999年にX.Y.Z.→Aが結成された翌年、それこそ二井原さんもLOUDNESSに復帰することになりましたし。

橘高:二井原さんはあのとき、それまでやっていたSLYが活動休止したんですよ。で、同じ時期に(ファンキー末吉と和佐田達彦が在籍する)爆風スランプも活動休止になり、俺も筋少の活動凍結宣言の後にいろいろあって脱退することになって、あの4人が集まった。X.Y.Z.→Aというバンド名は、「X.Y.Z.」でそれぞれアリーナまでやった連中のキャリアが閉塞したことを示し、「→A」には20世紀から21世紀を迎えるうえで新しいキャリアをもう一度始めるという意味が込められているんです。そうしたら新しいキャリアを始めたことによって、数年後には筋少も復活できたし、LOUDNESSのリユニオンにも貢献できた。結局俺、言ってることは何ひとつ変わらないんだよね。Euphoriaっていうのも「Z」から「A」に行くっていうのも、悲観的で人生を嘆いている奴がそこで終わらないようにするってこと。至福の楽園へ行こうよと思い続けていれば、夢は必ず叶うっていう。いや、必ず叶うとは言い切れないか。でも夢に限りなく近づくためには、夢を持っていなければいけない。これだけは言えるかな。で、その夢に対する思いが強ければ強いほど、苦しいことが苦しくなくなる。強い思いこそが予期不安を取り除く。そういうことを、俺はみんなに少しは見せてこれたんじゃないかと思ってます。

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