『オッペンハイマー』が公開された意義を再考する 過去作から紐解くノーランの作家性
現代を代表する映画作家、クリストファー・ノーラン。強烈な作家性を有しながら、高い興行成績を連発できる作家として一目置かれてきた彼に欠けていたのは、アカデミー賞という実績だった。そして、ついに2024年、ノーランはその栄冠を手にした。明らかに今、世界の映画界はノーランの時代である。
そのアカデミー賞を彼にもたらした作品が、原爆開発者を描く『オッペンハイマー』だった。日本の現代史にとって無関係ではない男の物語をめぐって、日本国内では様々な意見が飛び交うこととなった。
核兵器保有国が他国に力押しの戦争を仕掛け、国際情勢の緊張が高まる一方で、核兵器の廃絶を訴え続けてきた日本被団協がノーベル平和賞に選ばれた2024年、『オッペンハイマー』が世界の映画賞の頂点に立ち、被爆国の日本で公開されたのは、偶然ではあるが何かの必然を感じずにはいられない。
そんな『オッペンハイマー』が早くもWOWOWで放送される。しかも、クリストファー・ノーラン特集の一環として。ノーランがこれまで何を描き続けたのか、その歩みを振り返り、いかに原爆開発者と邂逅することになったのかを辿れる、またとない機会となる。
『オッペンハイマー』へと至るノーランの歩み
クリストファー・ノーランの作品を特徴づけているのは、時間軸の交錯と科学、とりわけ物理学への関心だ。「時間」についてのこだわりは、作劇のレイヤーで現れることが特に多く、それは長編デビュー作『フォロウィング』の頃から一貫している。創作のヒントにするため人々を尾行する作家志望の男を描くこの作品で、ノーランは彼の特徴とされる、時間を解体する展開を早くも試みている。
この時間の解体術は、次の『メメント』で一層ビビッドに効果を発揮する。記憶が10数分しか持たない男が、妻を殺された復讐を果たそうとするさまを、結果から因果へと逆行するように描いたこの作品は、人間にとっての記憶をめぐる実存の物語として完成度が高い。主人公は、記憶を維持できないがゆえに、過去がわからない。観客にそれを追体験させるために、直線的な時間軸での語りを採用せずに、断片的に時間を戻しながら提示していく。それを通して真相が徐々に明らかになってゆくが、果たして、記憶を維持できない彼という実存はどこにあるのか、観客はわからなくなる。人の実存は記憶の連続性によって保たれているとすれば、この主人公の実存はどこにあるのか、そもそも、人の記憶とはそんなに確かなものであろうかと根源的なスリルを突き付けてくる。記憶が頼りにならないのなら、過去は未来と等しく不確かなものでしかない、そんなことを気づかせてくれる作品だ。
後年、ノーランは「時間とは何か」について、『インターステラー』や『TENET テネット』など、量子力学的なアプローチを前景化させた作品を発表するが、作品の題材においても科学に注目していくようになる。
2006年の『プレステージ』は19世紀ロンドンを舞台に、2人のマジシャンの争いを描く作品だ。この作品で鍵となるキャラクターの1人に二コラ・テスラがいる。マジシャンの映画になぜ著名な科学者が必要なのかと思わせるが、彼が発明した、人体を含む物体を瞬間的に複製する装置が2人のマジシャンに大きな変化をもたらしていく。人体を複製するとは異様な発想だが、この科学者への興味関心は、後の『オッペンハイマー』へとつながるものと言えるかもしれない。
「科学は人に何をもたらすのか」をSF作品を題材に描くことを試みたのが、『インセプション』と『インターステラー』の2本と言える。他者の夢の中に入り込み、記憶を植え付けるという手法を駆使する主人公たちの存在は、『メメント』とは異なるアプローチで人の実存に迫る作品だ。記憶を変えてしまえるのであれば、その人物の連続性はいかに保てるのかと観客に突き付けている。『インターステラー』では、量子力学や宇宙論の知識を総動員して、現在と過去、そして未来が混然一体となった時空を創出して世界に驚きを与えた。
戦争映画である『ダンケルク』では、3つの異なる流れ方をする時間軸を交差させるように、戦争を俯瞰的に描く手法で注目された。人それぞれで時間の感じ方が異なる、時間は一定ではないのだという点を戦争を舞台に描いた点に新鮮さがある。ここで戦争という題材に初めて挑んだ点でも注目に値する。
時間へのこだわり、量子力学をはじめとする科学への傾倒、そして戦争。それらノーランが関心を寄せたものが1つの作品に流れ込んでいるのが『オッペンハイマー』だ。ここには、科学が戦争と人類に何をもたらしたのかと、その開発に携わった人々の葛藤が、時間軸を交錯させて描かれる。ノーランがこれまでのキャリアで描いてきたものがここに結実していると言える。