“大監督”クリストファー・ノーランの作家性ーー映像作家と劇作家、ふたつの側面から徹底考察

映像作家&劇作家としてのノーラン

 クリストファー・ノーラン監督の最新作『ダンケルク』の公開を記念して、その代表作を一挙に放送するスターチャンネルの特集企画「新時代の巨匠 クリストファー・ノーランの世界」が、9月2日よりスタートする。同特集では、出世作『メメント』、『ダークナイト』シリーズから『インターステラー』などの最新ヒット作まで、さらにノーラン監督の独占インタビュー番組も放送されるなど、“ノーラニスト“にとって必見の内容となっている。リアルサウンド映画部では今回の特集に向けて、映画評論家の小野寺系氏に、映像作家として、そして劇作家として、ノーラン監督がどのような特徴を備えているのかを考察するコラムを寄稿してもらった。(編集部)

『メメント』(C) 2000 I REMEMBER PRODUCTIONS, LLC

 最近、映画界から姿を消しつつあると感じられるのが、オーケストラの指揮者のように全てをコントロールし、自らの思い通りにスケールの大きな映画を撮りあげる、スタンリー・キューブリックや黒澤明のような「大監督」の存在である。

 現在、その数少ない一人に、クリストファー・ノーランがいる。この神経質そうなイギリス出身の映画監督は、『ダークナイト』、『インセプション』、『インターステラー』など、近年まれに見る、作家主義と大作主義が両立したヒット作品を連発し、その没入度が高く迷宮のように入り組んだ内容によって、映画ファンの間で“ノーラニスト(ノーラン主義者)”と呼ばれる熱狂的信者も生んでいる。ここでは、そんな“大監督”クリストファー・ノーランの代表的な作品を振り返りながら、彼の映像作家としての面、またストーリーを紡ぎだす劇作家としての面に光を当てて、才能と創作の秘密を解説していきたい。

映像作家としてのクリストファー・ノーラン

 いまアメリカの大手映画会社では、制作作品の中から看板となる100億、200億円クラスの超大作を、年間数本も手がけるような、ハイリスク、ハイリターンなビジネス戦略をとっている。だが、作品の規模が大きくなればなるほど失敗は許されなくなる。現在では、映画会社やスタジオが、映画監督を作品づくりの一つのピースとして厳しく管理するような、会社主導のシステムを機能させている。そこでは監督の作家性は犠牲になるか、限定的なものとなってしまうことが多い。

 1920年代に活躍した、エリッヒ・フォン・シュトロハイムという伝説的映画監督をご存知だろうか。彼は、実物そっくりのカジノを建設したり、画面に映らないような、セットの細かな部分にも本物の小道具を使用するなど、映画づくりにおいて放蕩の限りを尽くし、経済的に映画会社を傾かせ、映画製作の現場から追い出されることになった。シュトロハイムは、ずば抜けた才能で、映画史に輝く傑作をものにしながら、その撮りあげたフィルムの多くは廃棄されてしまっている。

 また、広大な屋外セットに機関車を用意し、完璧主義から何度も撮り直しをすることで、莫大な制作費をさらに超過した『天国の門』(1980)という、アメリカの歴史時代劇によって、映画会社を実際に倒産させてしまったマイケル・チミノという監督もいる。

 近年の映画会社は、そのような歴史的経験と、商業主義の先鋭化によって、映画監督という一個人の背中に大プロジェクトの全てを任せるようなリスクを回避するような傾向になってきている。この世知辛い時代に、作家性の強い作品でヒットを連発することによって莫大な資金を集め、作りたいものを安定的に手がけることができているクリストファー・ノーランという映画監督は、時代を逆行するような特別な存在なのである。

 前述した、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督や、マイケル・チミノ監督がそうであるように、ノーラン監督も、映像への本物志向のこだわりによって、経済観念や効率性というものを、ときに蹴飛ばしてしまうことができる一種の狂気というものを持ち合わせている。

『インターステラー』 (C) Warner Bros. Entertainment Inc.

 『ダークナイト』では、本物のトラックを縦回転で路上にひっくり返し、『ダークナイト ライジング』では、本物の飛行機を飛ばして、そこにもう一つの本物の飛行機をワイヤーで宙吊りにするスペクタクルシーンを撮影した。また当時、世界で4台しかないという約5000万円はする巨大なIMAXカメラを、撮影時に事故によって壊してしまったという逸話が残るなど、映像表現への挑戦的姿勢と妥協の無さは、異常なレベルにあるといえる。

 きわめつけは、『インターステラー』でトウモロコシ畑のシーンを撮影するために、約60万坪の土地で実際にトウモロコシを育て、本当に巨大な畑を作ったという事実だ。スクリーンに映る映像の完成度こそが、最も根源的な映画の価値である。それを高めるためには、あらゆる困難な道を突き進んでいくのがノーラン監督なのだ。

 このような映像への試みを、あまり意味のない贅沢だと考える人もいるかもしれない。確かに、コンピューター・グラフィックス(CG)でトウモロコシ畑の遠景を作れば、すぐに同じような映像を表現することは可能だろう。しかし、本物を用意した実写映像と、本物の代用として使われるCG映像では、表現の迫真性に差が出るのは確かだ。天然の魚の味と養殖の魚の味がそうであるように、仮にその差がほんのわずかだとしても、そこには越えられない壁が生まれることになる。そのことがノーラン監督の作品を、希少で特別な存在にしている。その違いを味わった観客が惹きつけられることになるのならば、ノーランによる予算の蕩尽というのは、非常に大きな意味があるということになるはずだ。

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