『アオのハコ』雛は愛すべき負けヒロイン 大喜が直面する成熟と幼なじみとの“距離感”

『アオのハコ』と「距離」の問題 あるいは、蝶野雛の「近さ」について

アニメ『アオのハコ』は、絶えず主人公・大喜が自分と対象の間にある溝を原動力として動き続けた物語だった。
例えば大喜にとってのバドミントンについて考えてみたい。彼は自身よりうまい選手(針生や遊佐)との実力の差を埋めるために努力し続ける。そのため『アオのハコ』において問題の中心となるのは常に大喜なのであり、彼の成長をめぐって物語は展開してきた。彼にとって自分の前を歩いている存在は追いつくべき対象で、その意味で本作は正しく『週刊少年ジャンプ』的な作品なのだ。
もちろん、それは本作を彩るもう一つの要素、つまり恋愛についても同じことがいえる。作中で大喜が憧れ、惹かれた千夏は、彼の先輩でありバスケ部としてインターハイに出場する。千夏のひたむきに努力する姿勢や敗退して落ち込む様子を見て、自分がそれに追いつけるよう努力することこそが、『アオのハコ』の物語を常に駆動してきたのは周知の通りだ。
このとき大喜が目を向けるのは、本人が「憧れてるっていうことは、そこに距離があるということだってなんとなく感じてる」と内省するように、その精神的な距離の遠さについてだ。同じ屋根の下で暮らしているという身体的な距離の近さに比してラブコメ作品で典型とされてきた「お色気」的な展開が回避され続けることは、まさに彼のそうした「距離」に対する姿勢があらわれているといえる。彼にとってはインターハイも千夏も共に、「遠く」にある今はまだ届かない存在なのだ。

ところで本作は、雛の存在の大きさ……言い換えれば彼女の大喜に対する恋情と、その失恋も話題になる。しかし、なぜなのか。なぜ彼女は失恋しなければならなかったのか。彼女が泣かずに済む方法はなかったのか。ここでは、そのことについて少し考えてみたい。
まずは、蝶野雛がどのような存在だったのか考えてみよう。『アオのハコ』の後半は徹底的に蝶野雛の話だった。第13話以降のEDの映像では全編を通して彼女を中心に据えており、またOPでの「多分実らない恋かもね/実に情けない愛だよな」という歌詞のカットをすべて雛に割り当てているのは確信犯といってよいだろう。そして、第24話で大喜から「つきあえない」と面と向かって言われてしまったことは記憶に新しい。雛は中学のころからの大喜の友人で、(振られたシーンを持ち出すのも心が痛むが)「私の方が大喜と思い出いっぱいあるのに……」と言ってしまえるほどの自負もある。彼女はいわば伝統的な「幼なじみ」ポジションにいるヒロイン……言葉を選ばずに言えば「負けヒロイン」なのである。

さて、このとき注目したいのは大喜との距離感と、それに対する大喜の態度だ。視聴者がよく知るように、二人の距離は身体的にも心理的にも極めて近い。千夏に対して触れることにすら敏感になってしまう大喜は、雛とは頻繁に、そこまで躊躇することなく接触する。いたずらをされ、肩を貸し、衝突し、髪についた木の葉を取ってやる。けれどそれが可能なのは、菖蒲の距離感に対して「近い」と捉えていることから考えてみると、雛との心理的な近さに起因していると言ってよいだろう。雛は常に大喜のかなり近い場所にいる存在であり、彼の心中で重要な位置を占めている。
にもかかわらず、大喜と千夏の物語というふうに捉えられてしまう本作において雛の立場は常に曖昧であり、一見すると雛は作品の本筋から切り離されてしまっている。雛と千夏は、大喜を通して以外の接点をほとんど持たないがゆえに、大喜と千夏の関係に焦点をあてる『アオのハコ』では、雛のアプローチは断片的なものである印象を受ける(他方で花火大会や文化祭といった一大イベントにおいて中心的存在になっているために、雛の存在は大きいように感じられるのだ)。雛が主に交流のある作中の中心的な人物は大喜とその親友の匡、そして後半になって登場した菖蒲くらいであり、言ってしまえば彼女は「物語に入り込めない存在」として本作にいるようにも受け取れる。