『ククルス・ドアンの島』を通して考えるガンダムと戦争 “匂い”を次世代に繋ぐために
1979年に放送されたテレビアニメ『機動戦士ガンダム』の一編、『ククルス・ドアンの島』が再解釈のもと劇場アニメとして蘇った。
このエピソードは、シリーズ全体の中で重要な位置づけとは見なされていない。テレビシリーズを再編集した劇場版3部作でも省かれている。このエピソードのメインキャラクターであるククルス・ドアンもこの話にしか登場しない。しかし、ドアンはなかなかに奥行き深いキャラクターで、内容的にも戦争を考える上で示唆的なエピソードであり、「捨てるには惜しい」という気持ちにさせるのも確かだ。
『ガンダム』シリーズは、基本的に戦争を物語の主題に置いている。戦うヒーローやロボットの格好良さと争うことの愚かさが同居し、その狭間に引き裂かれている。あるいは、愚かさというテーマすらエンタメとして消費しているというべきかもしれない。
それは娯楽としてのアニメの宿命なのだが、その引き裂かれた状態に、本作はどのようなアプローチを試みたのだろうか。
ガンダムと戦争
『ガンダム』シリーズにとって戦争とは何だろうか。アニメ評論家の藤津亮太氏は『アニメと戦争』(日本評論社)の中で先行作品の『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』の間にはひとつの断絶があると書いている。それは、現実の戦争とのつながりとの断絶だ。
『ヤマト』は宇宙を舞台にしたSF作品で完全なフィクションだが、「ヤマト」という名称によってギリギリ現実の過去の戦争とのつながりを持った作品であった。だが、『ガンダム』はそうした現実とのつながりを想像させる固有名詞はなく、架空の世界の架空の戦記として描かれる(作中にヒトラーの名前が台詞として出てくるエピソードはあるが)。
藤津氏は、著書の中で戦争がアニメの歴史の中でサブカルチャー化していったと指摘する。その変化の中で、「多くのひとの共通体験である歴史的な出来事から、非歴史的な架空の箱庭の中での出来事へ」(『アニメと戦争』P126)と戦争描写がシフトしていったという。その架空の世界を、リアリティを持って描くことを追求していく中で生まれたのが『ガンダム』という作品であるというわけだ。
この箱庭の中の戦争という発想は、作り手たちが必ずしも意図したものではなかったが、結果として「戦争ごっこ」のできる装置としてアニメ産業の中で定着していった、というのが『アニメと戦争』の中での藤津氏の論説だ。
『ガンダム』シリーズは、リアルだと評されたが、それは現実の引き写しという意味ではない。おおざっぱにいうと架空の箱庭の世界観が緻密に作られているという意味であり、ロボットを兵器として扱うことを指している。
絵空事の箱庭であっても、むしろそれゆえに作り手はそこに戦争のメカニズムや人の生活感などにこだわり、リアリティを獲得することに腐心した。そうした努力は結果として、戦争を知らない世代に戦争を考えるきっかけを与えてもいただろう。
藤津氏は『アニメと戦争』の「はじめに」で寺山修司の以下の言葉から同書を始めている。
戦争の本質は、実は少年たちの「戦争ごっこ」の中に根ざしている。
(『さかさまの世界史』寺山修司より)
今回リブートされた『ククルス・ドアンの島』は、この「少年たちの戦争ごっこ」に自己言及的に向き合った作品と言える。
少年兵アムロに束の間の休息を与えたドアン
ククルス・ドアンは大人のモビルスーツ乗りだ。彼は過去、ジオン軍のすご腕パイロットだったが、家族を戦争で失い、自身の加害行為に嫌気が指して軍を脱走し、戦争で家族を失った子供たちの面倒を見て過ごしている。加害と被害、両面で戦争の恐ろしさを身に染みて知る人物だ。
この島でドアンが守るのは、子どもたちとのささやかな生活だ。畑を耕しヤギを飼って20人ほどの子どもたちの面倒を見ながら、島に眠る兵器の処理をしようと試みている。
アムロはドアンと戦い、不意を突かれ倒されるが命は奪われなかった。彼がまだ少年であったためだ。アムロは、そこで束の間の牧歌的な生活をおくる。彼は軍属で戦争の最前線にいたわけだが、そのことを忘れさせてくれる時間であるかのように、島での生活が描かれる。
『ガンダム』は15歳の少年アムロが戦争に巻き込まれ、仕方なくモビルスーツに乗って戦うところから物語が始まる。そして、ニュータイプとして覚醒していき戦争の英雄になっていく。「少年の戦争ごっこ」を体現する存在といっていい。
彼は戦争を知らない普通の少年だったはずだが、否応なく戦いに巻き込まれてしまった存在だ。メタ的な視点でアムロを見つめるならば、我々観客はアムロの「戦争ごっこ」の旅路を楽しむが、アムロの視点ではとても「戦争ごっこ」などとは言っていられない生死をかけた悲惨な状況なのである。
その悲惨な状況にあったアムロに、ドアンは束の間の休息を与えた存在だ。これが本来の15歳の姿なのだと言わんばかりに島でのアムロは農作業のおぼつかない素朴な少年として描かれる。それはある種、「戦争ごっこ」のカタルシスから外れたものだ。本作の物語は、箱庭の戦争ごっこから距離を取っている点が面白い。だからこそ、「戦争ごっこ」の面白さと残酷さに気が付くことができる。