阿部寛が体現した“男らしさの限界点” 『とんび』が令和の時代に映画化された意義

『とんび』が令和の時代に映画化された意義

 重松清の同名小説を映画化、4月8日より劇場公開中の瀬々敬久『とんび』。この作品が、今の日本に誕生した意義は大きい。

 物語の舞台は昭和37年の備後市。主人公ヤス(阿部寛)は、不器用ながらも、愛する妻の美佐子(麻生久美子)と生まれてくる子どものために、運送業者としてあくせくと働いていた。息子のアキラが誕生し、温かく幸せな日々を送るも束の間、ヤス自身の職場で美佐子が事故死してしまう。父親としての、そして1人の男としてのヤスの姿が、周囲の温かな人々に支えられ大人になったアキラ(北村匠海)の視点から語られ始める。

 普遍的な家族の愛を描いたベストセラー小説として、2013年にはTBS日曜劇場にてテレビドラマ化もされているこの作品が、今新たに、映画として世に放たれるということ。そこには、「家族」の多様なあり方と、「昔の男」がいかに描かれるか、という課題に、令和の日本映画が活路を見出し始めている兆しが窺える。

 『とんび』のヤスのような昭和の男性像。素直になれないところが愛嬌と受け入れられることはあっても、すぐカッとなり、思うようにいかないと突発的に暴力を振るうところが、男らしさとして美化されることにはもはや疑問を抱かれかねないこの時代。しかし『とんび』は、その男性性を決してなかったことにはせず堂々と描く。それでいて、ヤスと、ヤスとは対照的に冷静なインテリでありながら母美佐子の不在に葛藤するアキラ、その他物語世界の人物たち、さらに私たち観客が、父親のあり方、家族のあり方に対する呪縛から一緒に解放されていくのは何故なのだろうか。

 それは、ヤスのような男性がもはや「強さ」では描かれないことにある。そしてヤスのような振る舞いが「強さ」の限界を迎えたまさにその瞬間、映像の強度をピークへと到達させるところに、この作品の最大の魅力があると言えよう。そこでは主演の阿部寛が、その抜群の存在感と演技力で貢献する。弱音を吐く阿部寛。トイレから出てこられない阿部寛。極めつけは、港で腰掛け俯く阿部寛。印象的なシーンは、阿部寛演じる「昭和の男」ヤスの、「男らしさ」「父親らしさ」の限界を迎え弱った姿にあり、これが名作小説『とんび』を令和の日本映画として新たに輝かせる所以でもあるだろう。

 その名演は西川美和『すばらしき世界』の役所広司を彷彿とさせる。そして、母親を亡くしたアキラを町の大人たちが温かく見守る『とんび』、刑務所から出所した不器用で乱暴な男を社会復帰させるため周囲の人々が手を差し伸べる『すばらしき世界』のいずれも、家族のあり方を血縁を超越したものとして捉え直させる意味で、日本映画の描く「多様な家族」が向かっていく先を示唆していると言えるだろう。

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