瀬々敬久×相澤虎之助が生み出した“化け物映画” 『菊とギロチン』が描く民衆の鼓動

荻野洋一の『菊とギロチン』評

 化け物的な映画を観る、化け物と対峙するというのは、なんと美しい体験なのだろう。音楽、美術、演劇、あらゆるジャンルに化け物的な作品は存在するけれども、映画のそれは格別なものである。化け物的な映画がどのように出現するかというと、その多くは長尺作品として出現する。中にはジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』(1933)のように40分ちょっとの怪物的な短編というものもあるが、今回の『菊とギロチン』3時間9分はじつに悦ばしい化け物である。瀬々敬久の作品としては4時間38分の『ヘヴンズ ストーリー』も化け物である。しかし、『64-ロクヨン-』のように前後編に見やすく切り分けてしまうと、怪物性はいっきに減衰してしまう。ようするに作り手の狂気、あるいは侠気に付き合わされて初めて、人は怪物と相対することができる。

 一方に女相撲、また一方にアナーキストグループ「ギロチン団」。大正末期、関東大震災とそれにつらなる朝鮮人虐殺、甘粕正彦による大杉栄暗殺と続く同時代に女相撲とアナーキストが思いがけなく出会ったりすると、どんな大気の変化が起きるのか? 大正期のアナーキストというと、神代辰巳監督『宵待草』(1974)の「ダムダム団」あたりがすぐに思い浮かんでしまうわけだが、時局悪化、世相悪化の相似性は、学生運動が沈静し、白々とした平和の中で作られた『宵待草』よりも、『菊とギロチン』が発表された現代の方が不幸なことに、きな臭い切迫感という点では軍配が上がる。

 映画の序盤、「ギロチン団」メンバーによって決行されたテロルの数々が描かれるが、それらはまるで子どもの鬼ごっこのようだ。本作において男たちは徹底して幼稚に、未熟に描かれる。女たちがみな、藁にもすがりたい悲壮な覚悟で駆け込み寺としての女相撲に流れ着き、そこで力と技に日々磨きをかけていくのとは対照的だ。ただし男たちは、女たちの行く道を開けるためにわが身を挺すると意を決したときに、かろうじて囮の藁人形くらいには変身することができる。逮捕や逃亡によって「ギロチン団」のメンバーが淘汰されていって、リーダーの中濱鐵(東出昌大)と古田大次郎(寛一郎)の2名に絞りこまれたとき、女相撲の新人力士2人(木竜麻生、韓英恵)とダブルカップルが生まれ、海辺の粗末な別荘を舞台とした先の見えない青春が燦めき出す。

 この海辺に居並ぶ粗末な別荘の佇まいが、じつに素晴らしい。最近では『焼肉ドラゴン』のコリアンタウンを造り込んだ磯見俊裕、そして大映京都、松竹京都で活躍した91歳の大御所・馬場正男の2人が美術監修をつとめ、限られた予算ながら、美術・装置で魅せるという、昨今の日本映画ではあり得なかったことが起きていて、これは最大級の評価をすべきだろう。関東大震災による混乱のため都内潜伏がむずかしいと判断した中濱鐵は、東京からほど近いこの千葉県船橋の海辺で潜伏を決めこむ。大杉栄暗殺に対する報復計画は遅々として進まない。若きヒロインの花菊関(木竜麻生)の「おら、強くなりてえ」「弱い奴はいつまでたっても何もできねえ」というセリフはまるでNHKドラマ『あまちゃん』の能年玲奈のようにも聞こえる。弱い奴はいつまでたっても何もできないという少女の叫びは、彼女に恋する古田大次郎にとっては図星で、彼の胸中をはげしく揺さぶっていることだろう。可愛らしい天然パーマの髪とジョン・レノンのような丸眼鏡が古田大次郎というアナーキストの無力と直情とを否応なしに強調し、それを見る私たち観客をだらしない保護者に仕立て上げるだろう。事実、筆者は彼を出来の悪い息子として見つめ続けるほかはなかった。

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