“境界”が次第に曖昧なものへ 永瀬正敏×奥原浩志監督『ホテルアイリス』の幻惑的な味わい
海沿いのさびれたリゾート地。母親が女手ひとつで切り盛りする「ホテル・アイリス」で働くマリ(陸夏/ルシア)と、ホテルからほど近い離れ小島でひとり暮らす「翻訳家」の男(永瀬正敏)――やがて、お互いの孤独を埋めるように、精神的にも肉体的にも求め合うようになる2人の関係を描いた映画、それが『ホテルアイリス』だ。作家・小川洋子が1996年に発表した小説『ホテル・アイリス』を原作とする本作は、親子ほどに歳の離れた男女の「禁断の関係性」を描いた映画――というよりも、むしろ、さまざな「境界」を曖昧にしながら、そのすべてが溶け合っていくような、そんな幻惑的な味わいを持った映画と言えるだろう。
ある嵐の夜、ホテルの受付に座っていたマリは、階上から響く女の悲鳴を耳にする。女の髪をつかみ、頬を張る男性。それが「翻訳家」との出会いだった。その数日後、母の使いで街に出た彼女は、たまたまその男を雑踏の中に見つけ出す。引き付けられるように彼のあとつけていったマリは、すぐに男に見つかり、それをきっかけに言葉を交わし始める。その後、男と手紙のやりとりをするようになったマリは、人目を忍んで男と逢瀬を重ねるようになり、ほどなく小島で暮らす「翻訳家」の家に同行――そして男は豹変する。強引に唇を奪われたマリは、服を脱がされ、椅子にひもで縛りつけられてしまうのだ。しかし彼女は、それを受け入れる。なぜか? それはマリにもわからない。鏡に映る自分の痴態をじっと見つめるマリ。
そんな奇妙な関係を続けるようになったある日、男の家に見知らぬ若者(寛一郎)が現れる。「翻訳家」の「甥」であるというその美しい若者は、いっさいの言葉を発しない。「甥」の才能をほめたたえながら、甲斐甲斐しく面倒を見る「翻訳家」。その様子を見つめるマリの心には、それまで感じることのなかった「ある感情」が芽生えていくのだった。けれども、その物語は、決してわかりやすくは進行しない。時折挟み込まれる回想シーンは、どこまでが「現実」で、どこからが「虚構」なのだろうか。そもそも、この奇妙な物語自体、誰が描き始めた物語なのだろうか?
本作の監督・脚色・プロデューサーを務めるのは、釜山国際映画祭グランプリ『タイムレスメロディ』(1999年)、ロッテルダム国際映画祭最優秀アジア映画賞『波』(2001年)、さらには、よしもとよしともの漫画を原作とする『青い車』(2004年)などで知られる奥原浩志監督だ。単身中国に渡り、全編北京語で撮影した『黒四角』(2012年)以来、実に9年ぶりの新作長編映画である。その彼が、「それは小川さんの創った主人公たちを疑うことから始まった」とコメントしている本作。そう、原作を読み込めば読み込むほど、その謎は深まっていくのだ。「翻訳家」は本当に翻訳を生業としているのだろうか。彼が話す亡き妻の話、そして甥の素性は、どこまで本当なのだろうか。そもそも「翻訳家」は実在するのだろうか。そのすべては、愛する父(彼は本当にいい父親だったのか?)を亡くし、残された母親と共依存の関係を強いられているマリによる、想像の産物なのではないのか。
その虚実入り混じった世界観は、小川洋子の原作小説の特徴のひとつでもある。『薬指の標本』(2005年/監督:ディアーヌ・ベルトラン、主演:オルガ・キュリレンコ)、『博士の愛した数式』(2006年/監督:小泉堯史、主演:寺尾聰)など、映画化された作品でも知られる彼女の小説は、どこの国のいつの話だかわからない、その幻想的な世界観を何よりの特徴としているのだから。けれども本作は、それらすべてを疑いながらも、そこにさらなる要素を加えることによって、この物語をよりいっそう独特なものに昇華しているのだった。
まずは、その主人公である「マリ」役に、台湾出身の若手女優・陸夏(ルシア)を起用したこと。彼女は、北京語と日本語の両方を話す人物に設定されている。原作では老人であった「翻訳家」を、永瀬正敏がそのままの姿で演じていること。そして、それ以上に重要なのは、「この場所と出会わなかったら、この企画は実現しなかった」と監督を言わしめた、台湾の最西端にある金門島というロケーションなのだろう。台湾本島からはるか遠く、むしろ中国本土に程近い「境界の島」でもある金門島。そこには、干潮時だけ歩いて渡ることのできる小島が、実際にあるという。それが「翻訳家」の住む島なのだ。あちらの世界とこちらの世界を繋ぐ「道」が、満潮時には跡形もなく消えてしまうこと。それは、同じく原作には無い要素として加えられた「合わせ鏡」のモチーフともども、本作が描き出す物語に、実に象徴的なイメージを与えているのだ。