菊地成孔の新連載「映画蔓延促進法」スタート! 第1回『イン・ザ・ハイツ』(前編)

菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(前編)

 当Webでの映画批評連載を再開する運びとなった。再開は2度目で、過去の連載は2冊の書籍として出版されている(『菊地成孔の欧米休憩タイム』『菊地成孔の映画関税撤廃』)ので、ご参照頂ければ幸いだが、『映画関税撤廃』から今回の再開に至るまでの休載期間は長く、その理由は、我ながら軽く溜息をつく以外、適切な反応態度がないのだが、コロナ禍に依るものだ。

 勿論、コロナ禍が映画界を消滅させてしまう訳などなく(飲食業界ですら消滅はしない。ご承知の通り、ここ数年間で「(完全に)消滅」したものは、「オリンピック開催によるインバウンド」という経済的期待値以外にーー社会的にはーー何もない。日本国民は全員、そのツケを払ってゆく状態にある)、その代わり、映画界は、過去、何度も見舞われた、加速的な分解と再編成の季節にあると言えるだろう。

 配信会社の制作による配信限定公開、既成映画会社の新作の配信限定公開、コンテンツビジネスとしての配信、シネコンの観客数制限、DVDやブルーレイの再発の活発化、公開期間の長期化、あらゆる違法アップロード、4Kデジタルリマスタリング、長編アニメ映画の隆盛、あらゆる自主映画と、多くの映画祭。後述するが、スマホテクノロジーは<ハリウッドクラスの動画制作可能なカメラと編集と録音スペック>を売り物とし、近い将来、「個人映画」は過去のそれとは相貌を一変し、黎明期の傑作を連発するだろう。

 <過去、何度も見舞われた>と、あたかも災害にでも遭ったかのように表現にしたのは、単にそれが、「積極的な行動ではない」「<対処>や<結果>に近い状態」という意味なだけで、ネガティヴを意味するわけではない。加速ではなく減速的に捉えれば、映画界だけでなく、あらゆる「界」が、分解と再編成を累積することでしか歴史を刻めないのは言うまでもない。

 では現在、「映画」が、<分解と再編成>の結果、どうなっているのか?といえば、「蔓延」している、としか言いようがない。今や「映画」どこでも、どんな風にも鑑賞できる。一部の観客は、「映画」を掌中で、倍速再生で鑑賞している。そうした点では音楽も同様なのだが、<室内で1人で第一次完成でき、SNS内で第二次完成が多発的に行われる>というレヴェルに、「映画」は未だいない。

 だが筆者は個人的に、前述、スマホに搭載された「動画制作スペック」の発達により、「(<新たな動画メディア>ではなく、あくまで)映画」も音楽と同格に置かれるべきであると考えている。単純にTikTokは「映画」のネクストを製作できる実力を備えているし、一方でスマホ側が、はっきりとこの観点からのCMコピーを打ち出していることに、筆者はノーイクスキューズで一票を投じる。そしてそれは来るべき「映画」の可能性の一角に過ぎず、こうした、あらゆる<映画の蔓延>を、筆者は無制限に促進すべきだと考えている。

 既に「映画批評」はインターネットによって、蔓延以上の状態にある。つまり、批評の対象である「映画」が批評側の蔓延状態と並ぶことは健康的であると思われる。

 というわけで、再々開第1作は

 1)ハリウッドのミュージカル作品

  を

 2)シネコン(丸の内ピカデリー)

  の

 3)ドルビーサウンドシステム上映版

  で

 4)上映開始から2ヶ月以上経た状態

  に

 5)客数20名程度の観客席(これは上映館の背減によるものではなく、<4>に依拠するものだ)

  で

 鑑賞し、これから批評を執筆する訳だが、このことが「映画」の分解、再編成に伴う、「映画批評」の分解、再編成を意味しており、特に<4>が、過去の「映画批評家による映画批評の原則」に反していることに、当連載の重要性を見出している。

 それはどういうことかと言えば、<批評家が、公開開始前、あるいは開始直後に批評(激賛から悪罵まで)を書くことが、興行収益に有益さを持つ(ネタバレというリスクを綱渡りしながら)。という時代は終わった>という意味である。この、<興行収益への有効性>という効果は現在、試写鑑賞者の内、作品に対して好意を持った者達による「コメント」というリージョンの肥大に、全権を委譲していると言えるだろう。

 前SNS期、「コメント」は、文字数の少なさから、手抜きや提灯などのネガティヴイメージを払拭できなかったが、現在は完全に転倒した。理由は言うまでもない。現在が中SNS期だからである。筆者も、連載の休載期から現在に至るまで、旺盛に「コメント」を書いている。

 「コメント」は、書き手の知性や文章力、何よりもその作品への理解を最大限駆使して短文にまとめた、一種の熱文であっても、「感動しました / 終わったあと言葉を失った / お勧めします」etc、機械的なテンプレを編集して(当人でない可能性も類推できるほど)貼り付けただけの、一種の冷文であっても報酬額に差がなく、しかも完全記名性で職種まで記すという、あらゆる意味で、混乱に近いほどの「コスパの悪さ」があり、筆者はその点を非常に高く評価し「良い仕事だ」と判断しているからである。筆者のコメントは文章量と無関係に、常に熱文であるが、両隣に冷文が並ぶことも非常に多く、大変に奇妙で、大変に痛快な気分である。

 これに対し、「映画に対する長文の批評」が、今後どんな役割を持つに至るかは、分解と再編成による<蔓延>の季節に於いて、まだ見通しが立たない。当連載がその実験場の一つとなるのは不可避的である。

 公開終了後の作品も(場合によっては)対象範囲内とするし、その場合は、ネット上に出揃った、あらゆる批評への後出しジャンケン(筆者は、あらゆる他者の批評を読まないが、このご時世、噂話程度の情報からも遮断されるのは不可能である)とも言えるし、経年をへて、ツリーの一葉となるだろう。そしてそれは、批評の蔓延を促進こそすれ、抑止にはならないであろうと確信する。以上が連載タイトルの由来である。稿料は一定であり、文字数は不定かつ無制限であり、筆者のアティテュードは一貫して熱文である。一応念のため、熱文とは「エモい文章」の意味であるわけがない。

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