菊地成孔が語る、ホン・サンス監督のオリジナリティ 「“マイルド”ではあっても“ライト”ではない」

菊地成孔が語る、ホン・サンスの独自性

キム・ミニ以降の大きな変化

――そう、派手なサービスはまったくないんですけど、やっぱり面白いんですよね。

菊地:男女の痴話喧嘩っていうのは、やっぱり万国共通の面白さがありますから(笑)。身につまされるし、いつのまにか心を掴まれるんですよね。あと、ホン・サンスの映画って、音楽がほとんど鳴らないんですよ。音楽が入ると自然主義じゃなくなるから。なので、ホン・サンスの映画は、タイトルバックでピアノの曲が四小節ぐらい流れるだけっていうのが多いんですけど、僕が知る限り一本だけ例外があって。それが『次の朝は他人』(2011年)です。個人的にはホン・サンスのキャリア初中期の最高傑作だと思うんですけど、あの映画は、ホン・サンスが珍しくロマンティックに寄った作品というか、いい意味で”普通の映画”に近いんですよ。とにかく、雪のソウルがめちゃめちゃ美しい映画なんです。

『次の朝は他人』(c)2011 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

ーーしかも、モノクロ映画であるという。

菊地:そう、モノクロの画面も非常に美しい。『次の朝は他人』は、ホン・サンス映画では珍しいことに、劇中で音楽が鳴るんですよね。しかも、ちゃんとロマンティックな場面に流れたり。だから、一般的な映画ファンに一番訴求する力があるのは、『次の朝は他人』じゃないかな。まあ、痴話喧嘩は痴話喧嘩なんだけど、基本的に恋愛が美しいし、雪が美しい。日本映画で雪を描くと、北海道とか東北とか、雪国になります。ソウル市は首都なのに豪雪に見舞われる。その美しさを撮っている。東京も豪雪に見舞われることはありますが、それ以前に東京の路面は撮影できないし、パリやソウルに比べると、東京は緯経度的にも積雪量は少ない。ソウル市の一種の特権です。あと、キスがむちゃくちゃ美しい。キスシーンが美しいっていうのは、映画の中でも相当強度があるってことじゃないですか。だから、「ホン・サンス映画、何から観たらいいですか?」って言われたら、『次の朝は他人』って答えるようにしているんです。まあ、そのあと他の作品を観たら、ちょっと戸惑うかもしれないけど(笑)。

ーー(笑)。そう、今回のラインナップには、いわゆる「キム・ミニ以後」の作品、つまりはキム・ミニを主演として撮るようになった近作4本も入っていますが、「キム・ミニ以前/以後」の作風の変化を、菊地さんはどのように捉えているのでしょう?

菊地:劇的に変わりましたよね。ホン・サンスは、このままずっと、それこそ韓国のロメールとして、人間観察映画をやり続けるのかなって思っていた矢先に、パク・チャヌクの『お嬢さん』(2016年)が入ってくるわけじゃないですか。

――キム・ミニは、『正しい日 間違えた日』で初めてホン・サンスとタッグを組んだ後、パク・チャヌクの『お嬢さん』に出演するわけですね。

菊地:そう。『正しい日 間違えた日』で、自分の映画の“ミューズ”となるキム・ミニと出会ったんだけど、そのあとパク・チャヌクという自分と同世代の監督の映画にキム・ミニが出演したわけです。で、『お嬢さん』っていうのは、ある意味ソフトポルノじゃないですか。そこにはロリコンも入っているし、百合も入っているし、グロテスクやフェティッシュもいっぱい入っているという。その映画に、自分のミューズであるキム・ミニが出演したわけで……。

『正しい日 間違えた日』(c) 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

――そこからちょっと、変なギアが入ってきたというか……。

菊地:だから、『正しい日 間違えた日』で、キム・ミニというミューズが決まったこと、そのミューズと不倫関係になったこと、そしてそのミューズが自分と同世代でありながら、まったく作風が異なる監督の映画に出演したこと……この3つのことがいっぺんに起こって、何かが決定的に変わったんですよね。それまでのホン・サンス映画には、あんまりなかったものが出るようになっていったというか。そう、ホン・サンスって、女の人を崇拝もしてないし憎悪もしていない、ある意味すごくフェミニスティックな監督だったじゃないですか。痴話喧嘩をしたら、男も女もどっちもバカみたいなことを言うし、「女の人はわからないな」って、男たちが頭をかくような映画ではない。非常にフラットな感じで恋愛を描く人だったんだけど、そういうホン・サンス自身が、不倫だ、国外退避だって、結構大変なことになっていったわけですよね。

――監督自身に妻子がいるということで、本国では結構なスキャンダルになったとか。

菊地:そう、一時期は韓国にいられなくなるぐらい、バッシングを受けて。ホン・サンスは、以前、「大人になってからの人生というのは、いろいろあるようで、実は毎日ほとんど変わらない。ちょっとした変化だけの毎日を繰り返し続ける。それを自分は描いている」というミニマリストの発言をしていましたし、その言葉は彼の作品説明に関する、最も完璧なものだったと思います。そんな諦念的なミニマリストの生活に、ミニマルな反復を壊す大アクシデントが生じた。ただ、それ以降も彼は、キム・ミニをミューズに据えて、映画を撮り続けているんですが、映画全体の雰囲気、トーンとマナーは変わってないんだけど、その中で稼働しているエネルギーみたいなものが、はっきり変わったような映画を撮り続けていく。何て言えばいいのかな。ミューズはいるんだけど、そのミューズに対して、嫉妬や憎悪の混じった複雑な感情が、ホン・サンスの中に芽生え始めるんですよね。そこは、ゴダールのアンナ・カリーナ時代の映画と同じだと思うんですけど。

ーーそのあたりから、虚構と現実が絡み合った“ホン・サンス劇場”みたいなものが始まったというか……。いつのまにか、観ているこちらも、それに巻き込まれているようなところがありますよね。

菊地:フランス的な自然主義リアリズムを超えて、よりパーソナルなリアリズムみたいなところに入ってきちゃいましたからね(笑)。キム・ミニという固定したミューズがいることによって、どこにでもあるような他愛ない恋の話が、他愛ないものには見えなくなってしまったんですよね。結構ドープな感じになっていったというか。チャヌクの『お嬢さん』に出たことへの当てつけじゃないけど、そのあとに撮った『夜の浜辺でひとり』(2017年)とか『クレアのカメラ』(2017年)は、ホン・サンスの男としての何かみたいなものが出ていて、それまでのフェミニスティックな感じとは、まったく違うものになっていったという。

『クレアのカメラ』(c)2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

――相変わらず時代性は無いし、男女の恋愛の話ばかりではあるけれど、今までと違う緊張感がある。

菊地:そう。それまでは、変な話、女優は誰でもよかった。「恋愛っていうのは、こんなもんでしょ?」っていう、ちょっと引いた目線、昆虫学者の目線で描いていたから。そういう観察者の視点から、だんだん当事者の目線が入ってくるようになっていったという。だから、キム・ミニ以降のホン・サンスは、もうロメールじゃないですよね。むしろ、ゴダールに近いものになっていった。男女の関係が、いきなり生々しくなったんです。全体のしつらえは変わらないんだけど、その内実というか、リビドーの領域が変わっていった。だからまあ、ドープな恋愛映画が好きな人には、堪らないものがあるのかもしれないけど(笑)。

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