大林宣彦監督が映画界や社会に遺したもの その“フィロソフィー”から何を学ぶべきか
高畑勲監督もまた、太平洋戦争を扱った『火垂るの墓』(1988年)が、これからの戦争を止めるための作品にはなり得ていないのではないかと、2015年に神奈川新聞の記事の中で、こう振り返っている。
「なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
つまり、大林監督が「うかつ」と表現し、高畑監督が悲観的に振り返ったのは、時の権力者によって都合の良いように解釈される余地のある作品を作ってしまったということになるだろう。日本人の多くが、高畑作品や大林作品に親しみ、愛情を持っている。にも関わらず、彼らの哲学に反し、いまの社会は、大林監督が『ねらわれた学園』(1981年)や、高畑監督が『火垂るの墓』を発表した当時よりも、確実に戦争の方向に向かっているのだ。
大林監督は、そのうかつさを取り戻すように、最後の仕事として、晩年の一連の作品で反戦をストレートに訴え続けた。いままで培った特殊効果や文芸的な演出などの技術を、すべて駆使して。それが大林監督の行き着いた境地であり、自分が映画監督であることの意味であった。
2016年に撮影が始まった『花筐/HANAGATAMI』の制作時に、余命数ヶ月を宣告されていたことを考えると、そこから2本もの映画作品を完成させたことは、まさに奇跡である。それは大林監督が、どうしても自らのフィロソフィーを伝えねばならないという執念があったためだろう。
クリエイターを含め、メディアも芸能人も、そして市民も、日本社会は海外と比べて政治的な発言を避け、立場や意見を表明することを嫌う傾向が強い。しかし、多くの人々が声をあげず、曖昧な態度を取り続けていることで、日本はかつて道を誤ったのではなかったろうか。大林監督は、そんな空気のなかで、自分のフィロソフィーを掲げ、渾身の力でメッセージを届けた。大林監督のそんな姿勢と勇気、そして自分自身の哲学を持つことこそ、われわれは大林作品から受け取っていかなければならないのではないか。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■公開情報
『海辺の映画館―キネマの玉手箱』
近日公開
監督・脚本・編集:大林宣彦
製作協力:大林恭子
エグゼクティブ・プロデューサー:奥山和由
企画プロデューサー:鍋島壽夫
脚本:内藤忠司、小中和哉
出演:厚木拓郎、細山田隆人、細田善彦、吉田玲(新人) 、成海璃子、山崎紘菜、常盤貴子ほか
配給:アスミック・エース
製作プロダクション:PSC
製作:『海辺の映画館-キネマの玉手箱』製作委員会
(c)2020「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」製作委員会/PSC
公式サイト:https://umibenoeigakan.jp/