『海に眠るダイヤモンド』が示したフィクションの力 次の世代に“記憶を受け継ぐ”ために

『海に眠る』が示したフィクションの力

 『海に眠るダイヤモンド』が放送された年と、ノーベル平和賞を日本被団協が受賞した年が一致したのは、奇遇と言えるだろう。

 『海に眠るダイヤモンド』は日本の高度成長期を支えた炭鉱の島、長崎県の端島で生きた人々の物語だ。1955年から始まる端島の物語を描く上で、脚本の野木亜紀子は「原爆の話をしないという選択肢はありませんでした」と話している(※1)。長崎で結成され、核兵器の廃絶を訴えてきた日本被団協にノーベル平和賞が授与されることが決まったのは10月11日。ドラマはその直後の10月20日に始まっている。

 第1話で、長崎を訪れた玲央(神木隆之介)といづみ(宮本信子)がタクシーで通りかかるのが浦上天主堂(カトリック浦上教会)だ。百合子(土屋太鳳/幼少期:野田あかり)と百合子の母・寿美子(山本未來)、姉の千鶴(竹井梨乃)はこの場所で被曝した。被曝の様子は第4話で詳しく描かれている。

 1945年8月9日午前11時02分、米軍が投下した原子爆弾は長崎市松山町上空で炸裂した。爆心地から約500メートルの場所にあった浦上天主堂は原形をとどめないほど破壊され、中にいた信徒は全員即死。浦上地区で暮らしていた1万2000人の信徒のうち8500人が犠牲になった。当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4000人が亡くなっている。

 原爆は百合子の家族に暗い影を落とす。姉の千鶴は即死し、母は原爆の後遺症で苦しんでいた。そして百合子は神を信じなくなった。台風の夜、祈りを捧げ続ける母親の前で百合子は「浦上の上にだってピカは落ちたんだよ!」と叫び、祭壇にあった十字架と母からもらったペンダント(メダイ)を投げ捨てる。母が亡くなったのは、その3年後のことだ。

 また、百合子は被爆のせいで恋愛、結婚、そして出産に恐れを抱いていた。ちょっとしたいたずらで原爆が落ちた日に自分を長崎へと行かせた朝子(杉咲花)に対しては、怒りに近い感情を持ち続けている。その理由を知っているのは鉄平(神木隆之介)と賢将(清水尋也)だけだが、彼らは百合子の被爆について何も語ることはできない。同じように従軍経験のある鉄平の父・一平(國村隼)と兄・進平(斎藤工)も戦争について口をつぐむ。戦争で人を殺す。戦争で人が殺される。戦争が終わっても心と体には深い傷が残り、人の心に重くのしかかる。第4話のタイトル「沈黙」の意味は重い。

 百合子が説教和尚(さだまさし)の前で強く否定した「(原爆による)苦難は信徒に与えられた試練」という考え方は、「浦上燔祭説(うらかみはんさいせつ)」と呼ばれる。自身も被爆し、妻を原爆で失った医学博士・永井隆が提唱したものだ。永井も1951年に白血病で亡くなった。永井の思想は強い批判を浴びたが、そう考えないとカトリック信徒が救われないという擁護もあった。

「爆弾を落とした人たちも同じ神を信じていた。神のご加護を。そう言って出撃したって」

 百合子が言うように、戦争は神の存在だって都合良く利用する。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年に来日したとき、広島で「戦争は人間のしわざ」と明言した。原爆は神が与えた試練ではないということ。戦争を起こすのは人間である。人間の中でも大人たちだ。和尚は大人を代表して百合子に謝罪した。

「ごめんね、私たちが、私たち大人たちが苦しみば作り出してしもうたとよ。子どもたちに大きな禍根ば残してしもうた。これはね、ぜーんぶ私たちの罪よ」

 死に際の母と和解していた百合子は、朝子を赦し、不安な気持ちを丸ごと受け止めてくれた賢将と結婚して子をなした。鉄平が端島の日々を記した日記は賢将に引き継がれ、百合子と賢将の子・孝明(滝藤賢一)を通して、いづみと玲央の元へとやってくる。

 被爆者の全国組織である日本被団協が長崎で結成されたのは1956年8月のこと。百合子の母が亡くなった2年前にあたる。

 代表委員の田中熙巳さんは12月10日に行われた授賞式のスピーチで、被爆して浦上天主堂が崩れ落ちた様子や大火傷を負った人たちを目の当たりにしたこと、身内を5人亡くしたことなどを語った。田中さんが目撃した光景は、百合子が見た光景とほぼ同じである。ちなみに現在92歳の田中さんは、鉄平、賢将、百合子の1歳下、朝子の1歳上にあたる。

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