“現実”を学ぶ『おしん』、“希望”を学ぶ『なつぞら』 いつの時代も心に沁みる朝ドラのメッセージ
現在、BSプレミアムで再放送されている『おしん』は、昭和58年(1983年)に一年に渡って放送されていたNHKのテレビ小説の31作目の作品である。現在放送中の『なつぞら』と同時期に放送されている『おしん』だが、一緒に観ていると、相乗効果でさまざまなことに気づくことができる。
『おしん』には、悪人も善人も出てくる。おしん(小林綾子/田中裕子/乙羽信子)が少女時代に最初に奉公に出た材木屋の奉公人のつね(丸山裕子)は、おしんに対して普段からきつくあたり、お金が無くなっていたことをおしんのせいにして、材木屋を追いやるきっかけを作る。また、おしんが青春時代に修行に出た髪結いの先輩からは、おしんが短期間の修行で髪結いを任されたことにより、嫉妬されるというシーンもある。
対して、『なつぞら』には、根っからの悪人は出てこない。最初のうちは、なつ(広瀬すず/粟野咲莉)が暮らす柴田家の娘の夕見子(福地桃子/荒川梨杏)は、同い年のなつに自分の服を貸し与える両親に対して「絶対にやりたくない」「ずるい、その子はずるい。その子がかわいそうなのは私のせいじゃないもん」と泣きじゃくるシーンがある。しかし、父親は、なつがここにきた理由が戦災孤児になったことであることを説明し、夕見子となつの状況が反対になってもおかしくないことを伝える。夕見子は徐々に納得していき、よき姉妹となっていく。
『なつぞら』では、人に理解してもらうためには、表現するということが重要であるということがちりばめられている。柴田家の人々は、「何でも言いたいことは言えばいい」という考えを持っているし、なつが高校生になって、祖父の泰樹(草刈正雄)との齟齬が生まれたときも、演劇で表現することで伝えようとする。どんな形であれ気持ちを表すことが生きる上で重要であると説いているような気がする。
対して『おしん』では、誤解から生まれる悲劇も描かれる。おしん自身も、思っていることを言えないことも多い。しかし、おしん自身の性格以上に、当時はまだ「何でも言う」ということがいかに難しかった時代だったかがわかる。例えば、父親や奉公先の主や先輩に誤解を解こうとすることが、すなわち「口答え」「反抗的」と取られてしまうくらいには封建的だったということだ。現代にもそんな環境はまだ残っているところもあるだろう。
先ほど、『おしん』には、悪人も善人も出てくると書いたが、おしんが材木屋の奉公であらぬ疑いをかけられたことから逃げ出し、雪山で遭難したときに助けてくれた脱走兵の俊作(中村雅俊)が、その善人の1人と言っていいだろう。山に暮らす俊作は、どことなく『なつぞら』の泰樹にも重なるところがある。その俊作がおしんに、こんなことを言うシーンがある。
「もしおしんが誰かを憎んだり恨みたくなったときは、憎んだり恨んだりする前に相手の気持ちになってみるんだ。どうしてこの人は自分につらくあたるんだろう、何か理由があるはずだ。それに思い当たったら、自分の悪いところは直す。でももし、おしんに悪いところもないのに相手が横車をおすようなことがあったら、相手を責めずにあわれんでやれ。理由もなくおしんをいじめるやつは、きっと自分も不幸な人間に違いないんだ。心貧しくてかわいそうな人間なんだ、そう思って許してやれ。おしんには人を許せる人間になってほしいんだ」と。