『えいがのおそ松さん』には何が描かれていたのか? 自己分析を反映させたファンサービス

『えいがのおそ松さん』の“ファンサービス”

 もちろん、『おそ松さん』はそれだけでなく、赤塚不二夫後期の作品を再現するような、破壊的なギャグの連発や、TVのバラエティー番組やお笑い番組に連なる要素を入れ、さらには6つ子全員が大人になってもニートで実家暮らし、おまけに童貞という悪夢のような状況を描くことで、二極化が進み負け組が増え続けている現代社会とのつながりを持たせることで、いわゆるオタクカルチャーの文脈だけにとどまらない世界観を作り上げている。

 回が進むにつれ、徐々にギャグのレベルが上がっていき、アヴァンギャルドな結末によって好評のうちに終了した1期と比較して、とりわけギャグの内容がトーンダウンしてしまった2期では、何が起こったのだろうか。制作を急ぎすぎたことでの準備不足など、内部事情が関係しているところもありそうだが、ここではとくに脚本面で一度限界を迎えてしまったということが考えられる。

 “限界が来る”、よくギャグ漫画家にこの現象が起こるといわれる。ストーリー漫画に比べ、ギャグを主体にした漫画では、エスカレートしていく内容をこれ以上創造できなかったり、ギャグの引き出しが尽きてしまうという事態に陥りがちだ。その場合どうしても、すでに出たネタを繰り返してしまったり、考えつくされていないネタを無理に使ってしまうことになる。もちろん脚本を手がける人員は一人だけではないが、例えば『ザ・シンプソンズ』などアメリカのコメディーアニメ・シリーズでは、より大人数の脚本チームを組織し、議論し合いながら作るため、質の高いギャグの量を維持することができることを考えると、ここでは体制としての問題が表面化してしまったように思える。

 さて、本作『えいがのおそ松さん』では、ここからどんな手を打ったのか。本作に限らず、TVシリーズの映画版の脚本を書くというのは、なかなか難しいところがある。観客の動員を考えなければならないため、一部のファンにしか理解しづらいような、ぶっ飛んだ内容にはしづらい。なので、どうしても人気のあるキャラクターの見せ場を作ることに終始してしまうような無難なところへ落ち着けがちだ。それは『ザ・シンプソンズ』劇場版も同様だ。その意味で本作は、もう一歩進んで一つの主軸を通したものにしていると感じられる。

 まず描かれるのは、高校の同窓会だ。ニートで実家暮らしの6つ子たちは、楽しい思いをしたり、あわよくばかわいいクラスメートとの出会いがあるのではと、のこのこと出席してしまう。だがそんなことはなく、それぞれ社会人となった同級生たちとの再会は、厳しい現実との直面を意味していた。格差社会が深刻化するなか、この“同窓会問題”は悩ましい。ついつい、体裁を気にするトド松やカラ松らは「就職している」と嘘をついてしまう。彼らが直面する現実は、我々の住む社会ではむしろ日常的に起きているリアルそのものである。

 だが、本作はそこから一気に幻想的な物語となる。彼らが酔いつぶれて翌日目覚めると、そこは18歳の自分たちが生活する、高校時代の思い出の世界だった。登場人物たちが異様な日常に迷い込むという意味で、本作は80年代のTVアニメ『うる星やつら』の映画版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)に近い。この作品が、高校の文化祭前日という夢の世界を舞台としていたように、本作もまた、あるキャラクターによる高校の卒業式にまつわる思い出が舞台となる。そこで6つ子たちは青春時代の自分たちを目の当たりにすることになる。

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