『ズートピア』が鋭く照らし出す、アメリカ社会の諸問題ーー作品に込められたメッセージを読む
謎の行方不明事件の捜査、違法薬物製造の摘発、警察官とマフィアとの癒着、そして街を牛耳る腐敗した権力…。犯罪小説の話をしているわけではない。ディズニーの劇場用アニメーション『ズートピア』の話である。
進化した肉食動物と草食動物達が争うことなく節度を持って暮らす世界で、多くの擬人化された動物達が生活を営む文明都市・ズートピアを舞台にした本作は、動物キャラクターの愛らしい見た目とは裏腹に、重厚な本格犯罪捜査映画だった。楽しく明るいユートピアのように見える街の裏の顔を描く本作は、まるで華やかなハリウッドのあるL.A.を舞台に、社会の闇を描いてきた「アメリカ文学界の狂犬」ジェイムズ・エルロイのノワール小説を原作にしていると感じるほどだ。
本作の監督リッチ・ムーアは、TVアニメ『ザ・シンプソンズ』のエピソードをいくつも監督しているが、そのひとつ「マフィアのバート」という、やはり闇社会を描いた作品を手がけている。シンプソン家の長男である小学生バートが、ひょんなことからイタリアン・マフィアのバーテンダーとして働くことになり、組織の中で信用され次第にのし上がっていくというエピソードだ。イタリア製スーツを着こなすようになったバートは、やがて小学校校長殺害容疑で逮捕されてしまう。『ザ・シンプソンズ』は悪ノリした大人向けのコメディー作品だが、今回、同様の試みを業界最大手であるディズニーの子供向け作品でやっているということを考えると、その特異さと前衛性が理解できるだろう。
郊外のにんじん農場で暮らす、小さなウサギの女の子・ジュディは、活動的で正義感が強く、小学生の頃からズートピアで警察官として働くことを夢見ていた。だが、ゾウやライオン、キリンやサイなど、大型動物と共に生活する社会で、彼女はあまりにも小さく無力に思える。だがジュディは周囲の心配や無理解を乗り越え、警察学校を首席で卒業し、ついに夢を叶える。しかし彼女は、赴任したズートピアの警察署でもやはり偏見の目で見られ、希望する犯罪捜査任務につくことを許されなかった。焦ったジュディは自分の職を賭けることを条件に、48時間のうちにカワウソ行方不明事件を解決するべく捜査に挑むことになる。
この大人びたドラマによって、まず作り手が描こうとするのは社会の欺瞞についてである。ジュディが「何にでもなれる」夢の文化都市だと思っていたズートピアは、実際に暮らしてみると、差別や偏見が存在する場所だった。これはアメリカ社会の縮図でもある。アメリカの都市は、かつて数多くの人種や文化が共存し混じり合う「人種のるつぼ」だと呼ばれてきた。だが実際には、それぞれの人種はそれぞれのコミュニティに分かれ、分断されていることも多い。全ての小学生達は「君達は何にでもなれる。警察官にだって宇宙飛行士にだってなれるよ」と、等しく希望に満ちたアメリカン・ドリームを提示される。だが彼らの一部は、実際に社会に出るまでに、人種や格差による不公平・不平等という現実社会の環境に打ちのめされ、次第に夢をあきらめていくことになるのである。
ズートピアに光と影があるように、そこで暮らす動物達も表面の姿と実相は異なることが示される。ジュディは愛くるしい見た目に反して、悪と戦う優秀な警官である。「わたしを見た目で判断しないで。わたしの能力を評価して」と訴えるジュディは、警察という男社会のなかで、マイノリティとして色眼鏡で見られ、「可愛いウサギの女の子」の枠に収まるよう、常に無言の圧力をかけられているのである。このような現実社会の投影は、これから成長し、近い将来社会へ出ようとする子供の観客達にとって切実な問題である。それでもあきらめず、一つ一つの局面で前向きに努力し続けるジュディの姿を見せることによって、本作は社会の圧力や偏見と戦う勇気を子供達に与えるだろう。「夢をあきらめるな」などという抽象的なメッセージのみを垂れ流すのではなく、その戦いが具体性をともなって描写されているということは重要だ。
ただ本作は、女性が果敢に男社会に挑戦する姿勢ばかりを賞賛しているわけではない。マフィアのボスの娘の結婚式のシーンを描くことで、幸せな結婚に夢を見ている観客へのフォローも作中にしっかり入れているのである。ピクサー同様、ジョン・ラセターが統括する、大勢のディスカッションによる脚本製作システムは、今回とくに隙がなく練られているといえるだろう。
だが、『ズートピア』のすごさは、ここからの展開が真骨頂なのだ。そのように男社会の偏見と戦っていたジュディ自身が、捜査の過程で、肉食・草食動物間の差別を助長する動きに加担してしまうのである。正義感が強く、差別を許さないはずの彼女は、自分のなかに差別的な先入観が存在することには無頓着だった。そのことに気づいたジュディは、素直に自分の差別感情を認め、肉食動物であるキツネのニックに謝罪する。観客が今まで感情移入し応援してきた主人公を、加害者として描くことで、本作は観客一人ひとりに、自身の内面の差別感情を意識させる。全ての先入観を排除し、完全にフラットな価値観を持つことは、誰にとっても困難だ。だが、それを認め、自らの偏見と向き合うこと無しには、改善することはできないというメッセージを送っているのである。