イエスは古代世界において“魔術の神”だった? 古代史研究者が読み解いた、魔術文書の内容とは


悩みや願望についてAIに解決を委ねる人も、今や少なくない。だがかつて、それを魔術に頼る時代が存在した。8月10日に刊行された本書『魔術の古代世界 「古代ギリシア語魔術パピルス」を読む』(前野弘志 著/角川新書)は、古代地中海世界史および碑文学の研究者である著者・前野弘志が、ローマ時代のエジプトで書かれた魔術の方法に関する文書群「古代ギリシア語魔術パピルス」から、12点の文書を翻訳。その内容を読み解き、魔術をリアリティのあるものとして受容していた、古代地中海世界の社会や文化を紹介した一冊だ。
魔術文書は3〜4世紀に書かれたものが、最も多く残されているという。そこで主な書き手となったのは、キリスト教に主流を取って代わられ、神殿での仕事を失った異教(キリスト教徒から見たキリスト教以外の宗教の総称)の失業神官だと考えられている。著者はそこに、パートタイマーである神官が神殿の閑散期に書いていた、アルバイト説も付け加えている。商売気のある彼らが書いた魔術文書は、〈素晴らしい連行(魔術)、これに勝るものはない〉といった宣伝文句など、商品である魔術を何とか売りたいという思惑を端々に読み取れたりもする。
では肝心の魔術の内容に関する記述はどうかというと、怖さや不気味さよりもマニュアル感が勝る。著者は〈「魔術」とは、魔すなわち神霊(神や死者の霊)を、自分の意のままに操ることができると信じられた技術のこと〉と定義する。魔術を操る技術は、呪文(言葉)と儀式(行為)の2つがある。両方を実行することで呼び出された神や霊の魔力によって、はじめて標的に影響が及ぶ。そこから目的となる恋の手引きや無病息災、商売繁盛などが実現する。そのシステムを発動させる手順が、魔術文書では説明されているのだ。
呪文は「アブラカダブラ」のような原文だと回文になっている言葉遊びもあれば、文章になっているものも、単語を羅列したものもある。そこで重要な要素となるのが、「名」である。古代エジプトでは名前がその人の本質であり、生命の一部であると考えられていた。そして呪文の中で名を呼ぶと、神さえも操れるとされていた。魔術で呼び出される数多くの神々の中には、なぜかイエスも含まれている。当時キリスト教はすでに大勢力となっていたが、民衆は魔術の神の一つとしてイエスをみていたのだという。その証拠となるのが、魔術文書に頻出する彼の名なのだ。
儀式の方に目を向けてみると、これがずいぶんと手間がかかりそうである。たとえば、自分のものとならなかった片思いの女性を眠らせないで殺す魔術。発動させるにはまず、冥府へ願いを届けるメッセンジャーとなる、コウモリを捕まえなければならない。その生きた状態のコウモリの〈右の翼に没薬で下の絵を描きなさい〉との文書の指示により、女性が椅子に座っているらしき複雑な絵を描く。次に〈左の(翼)には神の7つの名と次の文句を書きなさい〉と、結構な文字数を書かされる。手間がかかるというか、もはや無理ゲーに近い。
さらに、儀式を行う上で注意したいのが「月」の存在だ。魔術文書では儀式を行うタイミングを、月の満ち欠けや位置で表現していることが多く、正しい知識を持っていないと内容を取り違えてしまう可能性がある。他にも化学や料理に伝統宗教の影響など、魔術文書には多様な要素が含まれており、迷信ばかり書かれているとは決めつけられない。
こうした興味深いディテールの解説の合間に挟み込まれる、著者の魔術にまつわる経験談も読んでいて楽しい。魔術文書に使われたパピルス紙を自分で作ってみようと、原料である大きなパピルス草が手に入らないため、代用品の長ネギで「ネギルス」と称して再現。魔術で紙や板に塗る没薬(没薬樹の樹脂)の溶液を作ってみようと、水を加えた没薬を練ったりしている内に、指がしばらく臭くなる。太陽神の手下を召喚する魔術では、太陽を見つめながら呪文を唱えた後に影法師が見えてくるカラクリの正体を、日光網膜症の症状だろうと睨む。そこで危険を承知で、実際に試してみる。確かに太陽の手下とされる影は見えたものの、〈長時間、目の疲れや視力の低下を実感して後悔した〉。
〈魔術というものは、えてしてできそうもないことを要求するものである。結局、指示通りにできなくて諦めたとしても、やってみたという事実によって、諦めもつくというものである〉。著者はそんな真理を踏まえた上で、魔術が人間の性欲や支配欲、恐怖心の克服といった欲望をコントロールする手段であったのだとする。それが時代を経て宗教や現在のAIに移り変わり、次はどんな魔術の末裔が人間の欲望をコントロールしていくのか? 本書を読むと、そのヒントが魔術文書の中に隠されていそうな気もしてくる。
■書誌情報
『魔術の古代世界 「古代ギリシア語魔術パピルス」を読む』
著者:前野弘志
定価:1,320円(本体1,200円+税)
発売日:2026年08月10日
























